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農業経営者ルポ

俺は賃耕屋だ!!

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第27回 1998年02月01日

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 高柳さんを見てトラクタを買う人も出てきて競争も始まった。しかし、高柳さんは最初のトラクタ購入から1、2年後には2台目のトラクタを買っていた。

 こんなこともあった。かつて北浦周辺は根ミツバの大産地で、その根切り作業も大きな稼ぎネタだった。当時根切りに使っていたU字刃のディガーでは、後作業に万能(まんのう・3本爪の鍬)を使わなければミツバの株が崩せなかった。

 そこで、高柳さんは大型トラックのスプリングをスクラップで探してきて、それを加工して新方式の高柳式ミツバ根切り機を作った。

 その効果は絶大だった。これを通せば後は手作業だけで楽に株分けができるようになり、ミツバ収穫作業の作業負担を軽減し作業能率を飛躍的に上げた。当然、注文は高柳さんに集中した。

 その他にも、農家の必要を先取りするように、自ら機械開発したり新しい機械を導入していくことで地域の農業機械化レベルを上げていった。また、多くの農家は理解しようとしなかったが、機械化による土壌物理性改善がもたらす施肥管理の改良方法を農家に伝えてきた。いつの間にか高柳さんは、単なるマニアから一人前の賃耕屋に成長していったのだ。


誇るべき賃耕屋人生


 機械好きから始まった賃耕という新しい村のサービス業を営むなかで、はからずも地域農業変革の担い手となっていった。高柳さんにも農家の役に立ってきたという自負はある。

 しかし、その自負とは裏腹に、顧客である農家に対する技術サービスの提供が、農家の仕事へのわきまえを見失わさせ、あなた任せの農民を作ること、それが農家に伝統的な暮らし方を捨てさせることにつながってしまったのではないかという自責の念があるようだ。

 引揚者として開拓に入った高柳さんの父親は、農業を自然の循環の中でその恵みを受けながら生きていくこと、収入は少なくても無理のない暮らし、消費の大きさで語られるものではない本来の農家らしい暮らしの豊さに憧れていたという。

 自分とは真反対の性格であったかもしれない父親が憧れていたことを、父の亡くなった年代になり、変わり行く村の暮らしと農民の姿を目の当たりにしながら、高柳さんもそれを意識するようになったのかもしれない。

 茨城弁丸出しで大声でまくしたてる高柳さんの風貌や振舞いは、どうみても酒飲みの田舎のオヤジそのものである。しかし、子供心に夢見た通りにトラクタを買い、その借金を返すための賃耕を請負い、頼まれれば寝ずに仕事をし、疑問に思えばこそ機械を改造し、施肥や栽培技術も学んでそれを顧客農家に伝えようとしてきた。すべてそれは自分のやりたかったことをやってきただけにすぎないのかもしれない。でも、素直に賃耕屋という仕事で農家の役に立とうとしてきた。思いのままに素直に生きてくればこそ自省的であり、誠実な問いを自らに発する高柳さんなのだ。

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