ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

農業経営者ルポ

尊敬すべき「大バカ者」がここにいる

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第28回 1998年04月01日

  • この記事をPDFで読む
    • 無料会員
    • ゴールド
    • 雑誌購読
    • プラチナ
 会社の出張で何度かアメリカへ行く機会があった。その経験が長友さんに農業を思い出させた。それはロサンゼルス郊外の高級住宅地ビバリーヒルズで見たオーガニック食品を扱うスーパーだった。

 当時の日本で見る泥臭い農産物直売所やデパートやスーパーの有機農産物販売コーナーとはまったく違っていた。置いてある農産物や加工食品だけでなく、洒落たディスプレイを含め、お店そのものがお客に向けて明確なコンセプトを主張していた。

 長友さんは膝を叩いた。やがて日本でもこういう時代がくると確信したのだ。今から18年前、農業への憧れというよりビジネスマンとしての直感だった。

 「農業をやりたいので会社を辞めさせて下さい」

 出張の度にそんな店を見てきた長友さんは、辞表を出すというより社長に向けて自分の夢を語った。

 長友さんは「土」こそが全ての生命とエネルギーの凝縮体であると考える産土神(ウブスナカミ)信仰を土台とする古神道の家系である。「土」や「命」あるいは「自然」への崇敬があった。

 でも、長友さんは単なる農業憧れ派ではなく、青い鳥を求めて農業に逃げ込もうとする人達とは訳が違った。

 貿易会社を辞めると、今度は小さな自動車整備工場に入社した。

 それが農家になるためのまず第一の修業の場所だった。農業をするのなら機械の知識や技術が必須だと考えたからだ。実際そこでの修業は役立った。今でも機械はほとんど、スクラップ同然の物を自分で修理して使っている。


「地恩堂グリーンプラザ」の創業


 そして今から15年前。長友さん28歳。4年間のサラリーマン生活を卒業し、自営業者としての出発だった。「地恩堂グリーンプラザ」の創業である。

 しかし、まだ実際の農業を始めるわけではなかった。何の知識もない者が農業をやって食べていけると考えるほど世間知らずでもなかった。

 始めた仕事は野菜の引き売りだった。ある有機農産物流通グループと契約して、仕入れた野菜を家庭に宅配するのだ。それもまた、長友さんにとっては農業を始めるための第二段階の研修過程だった。そして同時に、長友さんが自分の考える農業を実現させるためにとった戦略でもあった。

関連記事

powered by weblio