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農業経営者ルポ

尊敬すべき「大バカ者」がここにいる

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第28回 1998年04月01日

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 地域の家庭を軒並に訪ねて回る営業活動を開始した。

 「有機野菜を買って下さるご家庭を探して歩くというよりは、長友という人間を宣伝して回ったという方が正しいですよ」

 野菜の引き売りは自分で農業を始めるために必要な顧客であり支持者を作ること、言ってみれば「長友ファンクラブ」を作るための手段だったのだ。

 八百屋さんだと思って戸口を開けたお客さんは当惑しただろう。その八百屋は有機野菜を売込むというより、土や自然、そしてそれにかかわる自分自身について語るのだから。有機野菜には興味はあっても、多分、ほとんどの人は長友さんをうさん臭く眺めたはずだ。そのために逃げるお客さんもいたに違いない。それでも自分の原則を守った。ただ売上を求めるのではなく、長友さんを必要としてくれる顧客こそを求めたからだ。

 もちろん野菜が売れなければ収入は無い。軽トラックに野菜を積んで横浜市の都築区内をはじめ近隣地区の家庭の戸を軒並に叩いて回った。東京都内に走ることもあった。

 ゼロから顧客を作っていくことの困難さを知ること、あるいは自分を必要とする顧客を意識することを通して、人は経営者たることを学ぶのだ。

 言葉に尽くせぬ苦労もあったはずだ。

 それでも始めて2年もすると引き売りの売上で2千7、8百万円、手取りの年収でも7、8百万円にはなり、とりあえず引き売りで飯が喰えるようにはなった。子供ができると奥さんは病院での助産婦の仕事を辞め、事務や電話でのお客さんの注文取りを担当するようになっていた。


「もぐり」の農家


 野菜の引き売りを始めて2年後、いよいよ農業の開始である。同時に、お客さんに迷惑を掛けないようにと、以後数年間をかけて徐々に引き売りの野菜営業を縮小していった。

 「折角収入が得られるようになった八百屋をナゼ止めなきゃいけないの?もっと拡大だってできるのに…」

 長友さんに直接ではなくとも、父上と奥さんは親類や奥さんの実家からそう言われていたようだと長友さんは笑う。しかし、既に教員を引退していた父はもとより、奥さんもそれを許してくれた。

 農業を始めるといっても農家台帳には名前の無い「もぐり」の農家だ。最初は20aの水田を借りてのコメ作りだった。翌年は別の場所で50aに「規模拡大」した。八百屋をやりながらの「兼業農家」だ。それと同時に、何度も役所を訪ねた。農業委員会の承認を得て正式に農地を借りたいという申請のためだ。しかし、「八百屋が本業ではないか」「家族で農業をしてるのは本人だけではないか」等々、長友さんの農家認定を拒否する理由はいくらでもあった。そして何より「そんな前例は無い」と、行政は長友さんをまともに相手にしなかった。最近でこそ各地の自治体が鳴り物入りで就農希望者を集めるようになったが、その当時は非農家が農家になることはそれほどに困難だった。

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