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農業経営者ルポ

顧客に試され、お天道様に裁かれる

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第29回 1998年06月01日

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新潟県の中でも豪雪地帯として有名な津南町。鶴巻義夫さんが経営する有限会社津南高原農産はそこにある。昨年度の売上は2億2000万円。その内訳は、有機栽培のトマト、ニンジン、リンゴなどジュースの加工販売、モチの加工販売、そして農産物の販売が3本の柱だ。3部門とも7000~8000万円で均衡している。農産物販売の中には、仲間の産物を頼まれて販売する分が約2000万円ある。
 新潟県の中でも豪雪地帯として有名な津南町。鶴巻義夫さんが経営する有限会社津南高原農産はそこにある。昨年度の売上は2億2000万円。その内訳は、有機栽培のトマト、ニンジン、リンゴなどジュースの加工販売、モチの加工販売、そして農産物の販売が3本の柱だ。3部門とも7000~8000万円で均衡している。農産物販売の中には、仲間の産物を頼まれて販売する分が約2000万円ある。また、有機農業研究会のメンバーを中心とした農家からの加工受託もしている。鶴巻さんは日本有機農業研究会の創立メンバーの一人なのだ。また、最近では各種の流通企業に対して相手先ブランドで生産・供給する分も増えている。

 昨年の鶴巻さんの作物栽培は全体で約6ha。生鮮野菜は、鶴巻さんに言わせると「自家消費に毛が生えた位の量」だ。米、ジュース用のトマト、薬草、雑穀類などが主であり、今年はナタネも約1ha栽培している。

 米や野菜等の販売先は昔からの提携先の個人がほとんどだが、加工品は量販店向けのものも少なくない。


開拓地で知った農業の矛盾


 昭和24年、鶴巻さん一家は津南高原の開拓地に鍛治屋として東京から入植した。鶴巻さんが10歳の時だった。

 農家として入植したのではないため、農地の配分を受ける資格はなかった。しかし、農地に転用される前の山林を地主から買っていたため父親は農地を得た。条件の悪い場所で、水利権の問題などから旧村民の反発もあり苦労は多かったらしい。

 中学校を出て、一旦は東京に就職したが、体を壊して田舎に帰った。それと前後して父親が体を壊し、鶴巻さんが農業を継いだ。

 「蛋白源を供給するのが近代化農業」という行政の指導を鵜飲みにして、バタリー式の養鶏、6頭の養豚、4頭の酪農、それでも当時としては多頭飼育。若さにまかせて意気込んでいたが、ことごとく失敗し、暮らしはやっと自給自足できるという程度だった。

 みな国や県の振興策に乗ってやってきたものだった。しかし、農家はもとより勧めた農協や行政を含めてその売先を考えてやっていたものではなかった。タバコは唯一売り先のはっきりした作物で一度に2haを作付けしたが、水田との作業競合が多く数年で止めた。

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