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農業経営者ルポ

顧客に試され、お天道様に裁かれる

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第29回 1998年06月01日

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 「農協や行政や学者などというものは本当にろくでもないものだ。そんな人々の言葉や支配から自由になって、作る人と食べる人たちとの声が直接つながる以外に農業の問題は解決しないのだよ。君たちと辻堂団地の人達との交流こそがそのひな形になるのだ」

 鶴巻さん自身は、始めから有機・無農薬にこだわりを持っていたわけではない。ただ、自分たちの農産物を欲しいと言ってくれる人達の希望に応えようとしただけだった。

 その後の有機農業研究会の活動では、有機・無農薬の部分だけが一人歩きしてしまったが、鶴巻さんは「有機農業運動」の本質は、農家が経営者として自己確認をしていく運動だったことを忘れるべきではないという。

 産直を通じた自分を必要としてくれる人々との出会いが、鶴巻さんを単なる農民から農業経営者へと変えていったのだ。必要としてくれる人々との出会いを通して、行政や農協の指導のまま売り先のない農産物を作り続け、借金だけが残っていく「作るだけの農民」の存在から脱出することの喜びが大きかった。自家菜園で作っている農薬をかけない野菜や完熟で収穫したトマトを欲しがる人々がいることなど、その交流の中で知ったことだった。

 最初に届けた野菜は自家用の野菜の余りを持って行くようなものだった。無農薬での栽培を含め、無理だと言いたくなるような提携先の要望に応えようとして試行錯誤を繰り返した。でも、提携先のグループもそれに応え、新たな販売先の紹介だけでなく、不作の時には文字通り助けてももらった。

 辻堂への産直はトラックで5年間続けた後、宅配便を使って現在にいたるまで20年以上にわたって続いている。

 それは、鶴巻さんにとっての産直や有機農業の原点であるとともに、経営者・鶴巻義夫の原点なのである。


ジュース加工の始まり


 その後、鶴巻さんたちは産直活動だけでなく生産においても様々な取り組みをするようになった。

 昭和51年、新潟県有機農業研究会を結成。そこで新潟市の食生活改善普及会の人々と出会った。ジュースの加工はその人達からの要望だった。

 トマトの無農薬栽培はしていた。でも、ジュース加工などやったことがない鶴巻さんたちに、資金や技術知識の提供を含めてそれを勧めてくれたのだ。

 米の乾燥舎を片付けて、ナベ、カマとヒシャクとジョウゴで作るトマトジュースだった。ノウハウも道具も何もなかった。長岡農業高校でトマトジュースを作っているというのを聞いて、習いにいった。そんなものでも、作ったらもっと欲しいといわれた。

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