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【女だからの経営論】
このままではダメになる?
- 三好かやの
- 第17回 1998年06月01日
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高松さんの家では、食べ物の80%を自給している。
「米も作り、牛乳も絞って、野菜も卵もあって、ハム、ベーコンは自分で手作り。パンも自分で焼いて……」
と、高松恵子さん(45歳)。高松牧場には、実習生や「牧場スタンプラリー」の参加者など、さまざまな人たちが訪れるが、恵子さんはいつも、手掛けた作物を使った料理でもてなす。「農家で豊かさを感じないで、いったいどこで感じるっていうの?」
とはいっても、25年前の結婚当初は「豊かさ」を感じるどころではなかった。恵子さんは、札幌の非農家に育った。そして高校時代に学校近くの牧場で実習していた克年さんと知り合う。学校の行き帰りの道中一緒になり、なんとなく意気投合。そうして結婚することになった。当時の高松家は、稲作が中心だったが、農業のことは、何も知らずに嫁いできた。
初めてだらけの農作業、家事に子どもの世話、それに加えて義母の介護……最初の5年間、恵子さんの肩には、物凄い重圧がのしかかってきた。
「こんな生き方をしていて、私本当にいいの? このままでは、絶対私はダメになる」
その頃、経営が親の代から克年さんに移った。それまでは稲作が中心で、和牛を5~6頭飼っていただけだったが、それをきっかけに、乳牛を増やしはじめ、米と酪農の複合経営を開始することにした。
「昔の農家の後継者は、親の後さえ継げばやっていけるという考えだったでしょ。親と同じことをしていれば、生き残っていけるのが農業だった。でも高松さんは、それがイヤだったの。自分の農業をやりたいと」
恵子さんは、夫のことを「あなた」でも「お父さん」でもなく、「高松さん」と呼ぶ。それがとってもいい感じなのだ。二人の間には同業者としての独特の緊張感が、いつも漂っている感じがする。
米と牛。人を増やさずに両方やるとなれば、設備投資も必要だし、恵子さんの負担はまた増える。それでも克年さんの決断に賛成できたのは、彼が漫然と家業を継いだわけではなく、自分の目的を持って農業をやろうとしていたからだろう。
「米も作り、牛乳も絞って、野菜も卵もあって、ハム、ベーコンは自分で手作り。パンも自分で焼いて……」
と、高松恵子さん(45歳)。高松牧場には、実習生や「牧場スタンプラリー」の参加者など、さまざまな人たちが訪れるが、恵子さんはいつも、手掛けた作物を使った料理でもてなす。「農家で豊かさを感じないで、いったいどこで感じるっていうの?」
このままではダメになる?
とはいっても、25年前の結婚当初は「豊かさ」を感じるどころではなかった。恵子さんは、札幌の非農家に育った。そして高校時代に学校近くの牧場で実習していた克年さんと知り合う。学校の行き帰りの道中一緒になり、なんとなく意気投合。そうして結婚することになった。当時の高松家は、稲作が中心だったが、農業のことは、何も知らずに嫁いできた。
初めてだらけの農作業、家事に子どもの世話、それに加えて義母の介護……最初の5年間、恵子さんの肩には、物凄い重圧がのしかかってきた。
「こんな生き方をしていて、私本当にいいの? このままでは、絶対私はダメになる」
その頃、経営が親の代から克年さんに移った。それまでは稲作が中心で、和牛を5~6頭飼っていただけだったが、それをきっかけに、乳牛を増やしはじめ、米と酪農の複合経営を開始することにした。
「昔の農家の後継者は、親の後さえ継げばやっていけるという考えだったでしょ。親と同じことをしていれば、生き残っていけるのが農業だった。でも高松さんは、それがイヤだったの。自分の農業をやりたいと」
恵子さんは、夫のことを「あなた」でも「お父さん」でもなく、「高松さん」と呼ぶ。それがとってもいい感じなのだ。二人の間には同業者としての独特の緊張感が、いつも漂っている感じがする。
米と牛。人を増やさずに両方やるとなれば、設備投資も必要だし、恵子さんの負担はまた増える。それでも克年さんの決断に賛成できたのは、彼が漫然と家業を継いだわけではなく、自分の目的を持って農業をやろうとしていたからだろう。
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