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農業経営者ルポ

「俺は逃げない」

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第30回 1998年07月01日

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「良い子ならいいのか?」


 宮本さんは高校を卒業すると、父親に自分なりの野菜作りをさせて貰うことを頼んだ。それから数年の間、家の仕事の合間に小さいながらも任された自分の畑で、見よう見真似の野菜を作り、地場の市場で売ってみた。ナスを植えてトマトにはならなかったというレベルの野菜はできたが、その結果は、海千山千の業者に買い叩かれて散々なものだった。売れても経費を考えれば赤字だった。悔しかった。でも、父はその売上を宮本さんのものにしてくれた。始めから教育のつもりだったのだろう。

 高校を卒業した頃の宮本家の農業は、それこそ7色の絵の具を使っているかのように多種多様な作物を作り、そして一年中仕事に追回されていた。それが農家の暮らし方だった。

 父親はよくここまでと思うほど勤勉に働き、一つ一つの作物も手抜きをせずにきちんと作っていた。

 きれいに作ること、百姓として恥ずかしくない生き方、暮らし方をすることにこだわっていた。でも、損得を考えて利益を出すこと、労働配分を考えて経営内容を変えて行くということはなかった。

 当時、結城は桑苗の産地であり、剪定した枝を使っての養蚕をするのが一般的だった。無駄のない合理的なやり方に見えるが、桑苗の相場は乱高下が激しかった。3年かけて販売できる桑苗木が暴落することもあった。

 桑苗の伏せ込みの季節は春だった。桑の苗を作るために親株に出た新芽の茎を折り曲げ、それに土をかぶせていく作業だ。手植え時代に田植えを終えた夕方からの仕事であり、心底、へとへとだった。

 それが終わると梅雨時期から夏にかけてのカンピョウ作りが待っていた。カンピョウの収穫と調整、それにハクサイの育苗、定植が重なって、これも寝る間も無いと思えるほどの忙しさだった。朝は3時頃から起き出してカンピョウを収穫し、昼は昼でその調整作業が待っていた。

 秋は秋で蚕の上蔟の時期だ。それはちょうど稲刈りの時期と重なっていた。1ha弱だったが手刈りの時代なので、稲はいつも刈り遅れだった。2、3反のハクサイの定植の時期とも重なった。

 桑苗もカンピョウも投機的な作物で、相場はいつも乱高下していた。小さなばくちの繰り返しで、しかも、それには心底へとへとになる労働が付きまとった。儲かった時はまだしも、相場が悪ければただお金が手に入らぬだけではない消耗感が家族を暗くさせていた。

 こんなことやっていてどうなるのだろうかと宮本さんは考えていた。

 「どんだけやったら気が済むんだ」

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