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農業経営者ルポ

「俺は逃げない」

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第30回 1998年07月01日

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 父親と喧嘩する日もあった。

 桑を止めようと言い出してから3年目のある日、宮本さんは父親に聞いた。宮本さんが22、23歳の頃だった。

 「俺は、黙って親の言い付けを守る良い息子でいればいいのか?」

 それまで宮本さんは、父親に喧嘩ごしで意見を言うことはあっても、父の言い付け通り文字通り遊ぶ暇もなく仕事をしてきた。

 父は何も答えず黙っていた。

 農家として生きてきた習慣を変えることはできない。それへのこだわりもあった。でも、父親も解っていたのだ。単に過去からの習慣ではなく、農家が自分の意志で経営を創造していく時代が始まっていることを。宮本さんの問いに答えなかったのは「お前の時代が始まるのだ、自分の意志で生きろ」と無言で答えていたのだと気付いたのは、自分が当時の父親と同じ世代になってからのことだった。

 それまで3年間位、父親に向かって経営の変革を訴え続けた。同じ県内でも他地域の同級生の家で見ていたハクサイの大規模栽培を、宮本さんは自分の進むべき方向だと定めていた。友人の家では、宮本さんの家の3倍から5倍の面積でハクサイを作っていた。それに、友人は遊びに行ける時間もお金も持っていた。

 宮本さんは、まず蚕を止めようと提案した。そこは、赤土の良い畑だったからジャガイモを作った。そして、始めたハクサイの規模拡大だった。

 当時だと2、3反でも大規模といわれる時代だったが、作付けを一気に1haに拡大した。

 「こんなに作ってどうすんだい」

 地元の人達に言われた。でも、宮本さんは地元業者に踏んだり蹴ったりにされていた時代とは違っていた。ハクサイはトラックに積んで、東京の淀橋市場に持込んだ。

 地元の農家では珍しかった2tのトラックも買った。トラクタよりも前だった。それも都内のナンバーを取るためにわざわざ東京に住む叔父に頼んで買ったものだった。「土浦」ではなく「足立」のナンバーを付けていた方が市場での扱いが違うと考えたのだ。東京に住む叔父の入れ知恵でもあった。今ならばかばかしいと思うかもしれないが、そんな時代だったし、それだけの思い入れをして始めたハクサイ作りの拡大であり、淀橋市場への出荷だったのだ。

 結果は大成功だった。当時の地元の人達から見れば1haのハクサイ作りなんて想像を絶する規模だったが、ほとんどの農家は自分の身の回りにしか目が届いていないことを、宮本さんはその頃に気付いた。

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