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農業経営者ルポ

「俺は逃げない」

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第30回 1998年07月01日

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 それまでとは売上の単位も変ってきた。でも、気持ちは覚めていた。こんなものではないという気持ちがあったからだ。もし、父や地域の農家に向かって「どんなもんだ」と天狗になっていたのなら、宮本さんは1haのハクサイ作りで終わってしまっただろう。

 翌年、補助事業で当時としては大型のシバウラの30馬力トラクタが入ってきた。トラクタが入って、規模拡大の展望も見えた。

 やがて宮本さんのハクサイ作りは、自作だけで8haを作り、それ以外に青田買いの分を含めると10ha以上にまで規模が拡大した。時には年間で数千万円も利益を出すこともあった。大規模に畑作をやるようになると、バレイショやニンジンなどの機械化が可能な畑作野菜の経営的有意性にも気付き、北海道型のプランターやカルチ、培土機、収穫機を入れて作物の多様化も図っていった。目標を目指して突き進んでいく時代が続いた。

 しかし、子供が中学校に入る頃になると、このままでよいのかと思うようになった。子供に譲る準備をしていかなければならないと思うようになった。

 子供に何を残せるのだろうか。それは「土」しかなかった。


子供に伝えるべきこと


 父が買った初めての耕耘機の時代から、宮本さんの機械力を縦横に使った機械化農業の時代。そして、裕司君はトラクタにも乗らず、自分自身は農作業すらしない農業経営者になる時代が来るのかもしれない。

 自分は親父より上になったのではないかと思わないこともないが、本当は自分の力ではなく単に時代が変っただけなのだと宮本さんはいう。それでは、自分は父親以上に何を子供に伝えることができるのだろうか。

 自分のこれまでを振り返ってみると、ガムシャラにチャレンジを続け、であればこそ困難にぶつかるという人生だった。ただ、困難から逃げることだけはしなかった。成長するにつれて、仕事が発展すればするほど、あの子供時代に上級生の恐喝に膝を振るわせながら「俺は逃げないぞ」と心の中で誓ったことを思い出すことが多くなっていった。それが生きていく勇気をくみ上げる源だったからだ。そして何より、逃げ続けていたあの少年時代の惨めさに戻りたくなかったから。

 思い通りにならないことの方が多くても、他人や世の中のせいにだけはしてこなかった。いつも「俺はこうする」「こうすることに決めたのだ」と自分に言い聞かせた。「今までがどうであったかではなく、これからどうするかだ。ちょっとでも目線が上を向いていれば、向上していけるのだ」。そのことを他人の前で口に出すことで自分を後に引けなくもさせてきた。

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