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農業経営者ルポ

「経営者」を目指すなら原点を持て

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第32回 1998年09月01日

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農業経営者としての原点


 「農業の一番大きな問題は、ほとんどの農家が農業なんかしたくないのに我慢して農業を続けていること」だと横森さんはいう。

 ただ農家に生まれたという理由だけで農業をしている。他の仕事をしていればもっと活躍していたはずの人も農家の中には沢山いる。嫌々継いだ仕事であれば、自ら考え工夫をするという意欲など出るわけもない。もとより「経営」などという発想はなく、ただ農地を手放したくないというだけで続ける農業が儲かるはずがない。それが、農家に農業の原理原則を忘れさせ、農協や企業を儲けさせるだけの農業にしてしまっているという。

 横森さんが農業をはじめたのは昭和51年、35歳の時だ。儲かっていたプラスチック加工の工場を止めて始めた念願の農業の再開だった。

 中学を卒業するとすぐに農業を始めた。本当は学校に行きたかった。家が貧しいわけでもなく、当時、土建業を営んでいた父親も横森さんが農業を継ぐことを望んではいなかった。先生も進学を勧めてくれた。しかし、頑として進学を許さず農業をすることを命じたのは横森さんの祖父だった。

 祖父は横森さんを子供の時代から農業をすべき者として教育していた。農地を受け継ぐなどということではない。「農業経営者」たることを教育することだった。そして、農業の原点は「土を肥し、体を動かして働くこと」だと孫の横森さんに教え込んだ。そのために必要なのは進学することではなく、土や作物に向って汗して働くことであり、自ら学ぶことだとお爺さんは確信していたのだ。

 中学卒業後の数年間は、母親とともに水田と養蚕それに豚を飼う、当時の長野の山村の典型的な農家をした。

 しかし、祖父が亡くなってから数年後、横森さんは国際農友会の派米農業研修生として3年間のアメリカ研修に応募する。昭和37年、横森さんが18歳の時だった。もっと自分を試してみたかったのだ。豚を売り、田や畑を人に貸しての渡米だった。それでも家族は誰も反対しなかった。かつて、南米移住を夢み、北海道に調査旅行にいったという横森家に伝わる祖父の精神がそうさせたのかもしれない。

 研修先はイタリア系の野菜農家であり、自らパッカーとして集荷や出荷する農家でもあった。現在の派米研修生は「研修」と言う色彩も強くなっているが、当時の農業研修はただひたすら働くことだった。労働は休日なしに毎日17、18時間。土曜だけが12時間労働だった。夜12時に寝て、朝4時には起きるという毎日だった。しかし、アメリカでは低賃金でも、3年間働けば日本に帰って家が買えるくらいのお金を手にすることもできた。今、日本で働く途上国の人々の姿はそのまま当時の横森さんたち派米研修生の姿だった。

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