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農業経営者ルポ

「経営者」を目指すなら原点を持て

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第32回 1998年09月01日

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 そこでは何よりも「働くこと」を学んだ。人間の体力の限界を見た様にも思えた。それに挑戦する自分を知った。

 「成功する経営者には必ずその人なりの人生の『原点』や『基礎体験』というべきものがある」と横森さんはいう。カリフォルニアでの派米研修生としての体験こそが横森さんの農業経営者としての原点だった。


本当にやりたい仕事


 昭和41年。21歳で帰国した横森さんが、最初にやった仕事は野菜の引き売りだった。トラックを買い、市場で仕入れた野菜を売る移動販売車である。でも、1ヶ月で止めてしまった。売れなかったからではない。商売人でなかったからだ。まだ、農民根性が抜けていなかった。ワガママだった。お客さんを相手にしているのに品物が悪いなんて言われると頭にきてしまう横森さんだったのだ。

 我慢して2年間、小さな町工場の営業の仕事をした。仕事は取ってきた。責任も持たされたが給料が余りにも安かった。それを止めると、プラスチック加工をしている親戚から働いてくれないかと頼まれたが、もう勤めるのは嫌だった。下請けをさせてもらうように頼んだ。3ヶ月の見習の後、プラスチック加工の自営業者になった。

 アメリカで勤勉という習慣を身につけていた。自分で建てた12坪の工場は24時間営業だった。それが信用につながり、良い仕事を回してもらえるようにもなった。人を使うのではなく村の人に内職の仕事として出していった。現金収入を求める村人たちも喜んで働いた。お金は儲かった。

 そして、オイルショック。昭和48年、まだ儲かっていたプラスチック加工の工場をあっさりと止めてしまった。仕事が減ったからというよりも、自分が本当にやりたい仕事は農業だと改めて思うようになっていたからだ。

 それからの2年間は調査、分析の期間だった。昭和51年、念願の農業を再開した。畜産、切花と考えた末の野菜作りだった。

 農業を始めるための投資は、買って間も無いライトバンを売り、2t車に買換えたこと。それだけだった。畑は1ha。自作地もあったが、人が荒している畑を借りるほうが多かった。耕うん機は親戚が使わなくなっていたものを貰い、10万円位かけて修理して使った。後は、全部手作業だった。農作業の省力化を考えるより野菜を売るためのトラックへの投資を優先させたのだ。自分で作ったものは自分で売ることを原則にしたいと考えたからだ。

 仕事は家族全員、小さな子供たちも学校へ行く前に仕事を手伝わせた。休みも家族全員で仕事をした。夏は農業をして、冬場は土木工事に夫婦で出て行くことも多かった。

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