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他所の飯を食べてきた二人
生活改良普及員時代の聖子さんは、農産加工品の共同作業所を農家の主婦たちと一緒に作り上げていくことなどが主な仕事だった。自分が働きかけることで人々が変っていくことを面白いとも感じた。しかし、それ以上に年かさの農家の主婦たちから学ぶことの方が多かった。
そんな聖子さんが、「農家を指導する」という立場に立った生活改良普及員の仕事をしながら感じてきたことがあった。それは、農業には沢山の選択肢があり、いろいろな人生や様々な経営があってもよいのだということ。そして、農家自身が主体的に自分や経営を創り上げて行くこと、言ってしまえば、自分がやってきた生活改良普及員の指導など必要としない、自立した農家が育つことだった。
聖子さんは、勝則氏を伴侶として選んだ動機をこう話す。
「私は、農家の主婦として誇りを持って生きていた母親を見て育ちました。そんな母を今も尊敬しています。大人になったら農家になろうと思っていたし、結婚するなら農業をやってる人だと決めていました。それで彼とお見合いしたのです。私も酪農家での実習体験をして、そこでいわゆる他所の飯を食べる体験を通して自分を見つめることができました。彼は、言葉も通じないアメリカまで行って他所の飯を食べてきてる。私以上によその世界を体験しているんです。そんな人なら、目標を持って人生を投げずに生きていく人なのではないかと思いました」
聖子さんは、勝則さんとの結婚を機にやり甲斐を感じてきた生活改良普及員の仕事を辞めた。未練はなかった。
「農家との結婚は女性の職業選択を奪ってしまう」という議論が農業界にある。聖子さんの場合それは何の問題にもならなかった。農家として夫と共に生きて行くことを夢見てきた聖子さんなのであり、それが嫌であったのなら、そもそも勝則さんとのお見合いはあり得ないことだった。人生の夢や目的を共有できる伴侶に出会えたことは幸運だった。でも、それは成り行きではない。どんな結果になろうと、それは聖子さん自身の責任で選んだ人生の選択なのだ。
自分を語り相手を認める
一方、勝則さんは、高校進学の頃までは、農業について特に好きも嫌いも無く、子供の頃から何となく父のあとを継ぐのだろうと考えていた。しかし、農業高校を卒業する頃になると、農業を継ぐことには抵抗はなくても、農業への理解が深まった分、もっと農業を学びたいと考えるようになっていた。
当時は、馬と人力労働から機械の時代へと移行していく時代だった。苦労しながら体で憶える農業の時代から合理的な知識が経営を創り上げていくという農業の変化を、勝則さんはもっと勉強したいと思うようになったのだ。
収穫の喜びを感じる農業者の精神を勝則さんは子供時代から持っていた。でも、もっと別な何かがあるのでないかと予感した。それに、高校を出てそのまま農家になってしまうことで、古い農業や農村の在り方に無批判に染められていってしまうのではないかという思いもあった。
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昆吉則 コンキチノリ
『農業経営者』編集長
農業技術通信社 代表取締役社長
1949年神奈川県生まれ。1984年農業全般をテーマとする編集プロダクション「農業技術通信社」を創業。1993年『農業経営者』創刊。「農業は食べる人のためにある」という理念のもと、農産物のエンドユーザー=消費者のためになる農業技術・商品・経営の情報を発信している。2006年より内閣府規制改革会議農業専門委員。
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