ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

農業経営者ルポ

夫婦で共有した農家であることの夢と理想

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第33回 1998年10月01日

  • この記事をPDFで読む
    • 無料会員
    • ゴールド
    • 雑誌購読
    • プラチナ
 親は進学を許してくれた。

 入学した拓殖大学農業短大は、学びの場であると同時に、府県出身の自分とは異なる経験を持った同世代の友人たちと出会う場でもあった。それは異質の者と調和しながら自分の位置を確認していく初めての体験だった。

 短大に入学したばかりの頃、青森から入学した友人が

 「自分はアメリカに農業研修に行く。アメリカの荒くれ者と喧嘩することもあるかもしれない。だから空手部に入る」と勝則さんに話した。

 彼は、アメリカ研修への夢を語り、そのための空手修業までを考えていると言ったのだ。人生の岐路に立ちながら、自分にはまだ見えていない曲がり角の先にあるもの、その先にある広い世界が彼には見えているようだった。どちらかと言えばひ弱にすら見えた友人は、卒業する頃には心身共に空手部のリーダーとして皆を引張っていた。今、網走で農業をするその友人の影響もあった。

 勝則さんはアメリカの大規模な農業経営を体験してみたいというより、理想とする機械化農業の合理性や経営の在り方を学び、そして、そこに生きる農家の生き方を知りたいと思った。

 「あと2年間だけ時間を欲しい」

 両親は彼のわがままを聞いてくれた。

 研修先は、カリフォルニア州の北、ワシントン州のヤキマという町だった。研修に入った農家は酪農家で野菜も作るという家族経営の農場だった。

 両親と5人の子供たち、その連れ合いたちが農場にかかわっていた。誰が跡取りなんていうことではなく、家族皆で経営会議をしながら、皆がそれぞれにチャレンジし、皆がそれを助けるというような家庭だった。

 奥さんはマネージメントのために会計士の資格まで取っていた。家族経営といっても、販売金額も大きく夏の間だけでも百数十人の労働者を雇い入れており、その管理だけでも合理的なマネージメント能力がなければ成り立つものではなかった。

 彼らは勝則さんを息子の様に可愛がってくれた。下手でも英語で一所懸命に自分の意見や自分自身について話した。彼らは控え目であることより、自分の事を語る者を受け入れるのだった。言葉の上手下手ではなく、自分を語れない者は相手にされなかった。

関連記事

powered by weblio