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農業経営者ルポ

日本そして日本人だから出来る「世界への挑戦」

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第34回 1998年11月01日

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農業経営者には様々なタイプがいる。透徹した自然観と優れた技術知識を持っているのに、「売る」ことや「お客さん」のことは眼中にない人。反対に、技術にはまったく無知、無頓着だが優れた「商売センス」を持つ人。また、これは農業経営者と呼びたくはないのだが、技術も商売センスもたいしたことがなくても、小さな利権に鼻が利き、政治や行政などへ取入ることには長けている人物もいる。
 農業経営者には様々なタイプがいる。

 透徹した自然観と優れた技術知識を持っているのに、「売る」ことや「お客さん」のことは眼中にない人。反対に、技術にはまったく無知、無頓着だが優れた「商売センス」を持つ人。また、これは農業経営者と呼びたくはないのだが、技術も商売センスもたいしたことがなくても、小さな利権に鼻が利き、政治や行政などへ取入ることには長けている人物もいる。

 今回紹介する中村泰明さん(50歳)ほどの「現実的技術知識」と「経営センス」を兼ね備えた人物は稀だ。そして、この中村さんの経営の中に「農業経営者」だからこそ起せる農業ビジネスのヒントも示唆されている。


トマト1作 30t/10a


 中村さんが本格的に農業を始めたのは32歳の時だ。皮肉にもそれまでの事業の失敗がキッカケだった。

 近畿大学の農学部を卒業と同時にミカン栽培を中心にした父親の農業経営を手伝うようにはなったのだが、24歳の中村さんは友人と共に学生ビジネスの気分で外車の平行輸入の事業を始めた。ロンドンで英国車を買ってきて日本で売る。1台売れば50万円は儲かる美味しい商売だった。それからの8年、商売は順調だった。しかし、ある日突然、為替変動が原因で廃業せざるを得なくなった。取引銀行の過失に巻込まれてしまったのだ。損失は小さくなかった。

 それは、若い中村さんにとって高すぎる授業料だったが、この事業の経験と失敗が、10数年後に世界を股にかけて活躍する農業経営者・中村泰明を産み出したのである。

 回り道をしたために就農年齢は遅かった。にもかかわらず、農業経営でも中村さんの能力は一気に花開き、和歌山に中村ありといわれるほどバラ栽培者としての頭角を現していった。

 就農3年目、まだ盛んだったミカン栽培を、将来性を考えて止めた。トマトと花の栽培に取組んだのだ。地域の先駆け的存在だった。

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