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江刺の稲

農業を金縛りにしてきたもの

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第35回 1998年12月01日

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 国家が体をなす最低限の条件である食糧の確保を目的とした食管法が、世界有数の金持ちの国になった後も長く存在し続けた理由は、日本がまだ開発途上国だった時代の国家による農業管理の論理(支配と保護)と、支配される「弱者」としての農民の要求運動としてあった戦後の農協・農民運動の利害とが一致してきたからだった。いわば農業界の「五十五年体制」とでもいうべき状況が続いてきたからなのである。

 食管法本来の目的が曖昧となり、農業保護と農業関連の団体や企業の利権を保障するものでしか無くなった後も、建前と現実の矛盾をつくろいその利権を守るために、様々な形で膨大な農業予算が投じられてきた。その結果は、農業を政治と官僚支配と被害者意識と利権の渦巻く世界にしてしまった。そして、食管法に象徴される農業界の論理や精神構造が、我が国が途上国か社会主義国家であるかのように農民と農業にかかわる者の自由と自立と誇りを奪い続け、誠実に農業者としての本義を果し、事業者として社会に貢献することを望む者を排除し続け、ある者はその生贄とされてきたのである。

 食管法は稲作農家に対して、職業倫理の基本ともいうべき自分で作ったものを自らの責任で売ることを罪として罰し、自らの責任で売らぬことを義務として押付けてきた。農家も米流通販売業者も、本来なら健全な商行為であるはずの売買を「ヤミ米売買」あるいは「不正規流通」という後ろめたさを持ちながら、それでもなお違法を承知でそれを行ってきた。

 食管法ほど「法の建前」と現実社会での「本音」が乖離した法律はなかった。昼には農協や役場職員に動員されて「食管死守、ヤミ米追放!」などとノボリを立てハチマキをして村社会のなかで正面切ってそれを行う者を糾弾していたその人が、夜、「ヤミ米」業者に向かって「領収書は出せないよ」などと言いながら「ヤミ米」売買をしていたのである。

 それは、表向きの看板を付け替えたり提供されるサービスの呼び方を変えれば公然と営業ができてしまう「売春防止法」の建前と世間の本音ともよく似ていた。

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