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農業経営者ルポ

自分の目の中に灯台と顕微鏡を持て

 昭和32年、勝部さんが高校を卒業した年だ。フォードの32馬力。日本に初めて5台輸入されたディーゼルトラクタの内の1台だった。トラクタ本機が95万円。プラウとロータリが合計で約25万円。おおよそ120万円の買物だった。100万円の売上というのが農家の夢だった時代で、その数年前、勝部家が家を建てるのに125万円かかった。家1軒分のお金だったのだ。

 若い勝部さんは、夜も寝ないで賃耕を請負った。勝部農場以外トラクタなんてどこにも無い。当時で1日2万5000円の稼ぎになった。というより2万5000円を稼ぐまで家に帰らないという仕事のやり方だった。しかも、農村は労力不足、作業依頼はいくらでもあった。すぐ翌年には一回り大きな52馬力のフォードを2台買った。

 請負いは、施肥、播種、カルチ掛け、収穫とあらゆる作業に及んだ。

 麦のドリルも昭和33年に買い、豆の播種機もアメリカのコーンプランタのカタログを参考にしながら、溝切り、施肥、土壌混和、溝切り、播種、覆土、鎮圧の7工程を時速4kmで1台で処理する5条の播種機を機械屋に泊り込んで作ったりもした。そのために外国の雑誌を取り寄せて読んだ。

 賃耕をして、作物単価ではなく面積でもなく、一人当りの労働の付加価値を上げることが大事なのだと言うことを実感した。

 勝部氏が作った播種機の場合でも、それまでの作業と比べれば7工程で5条だから、それだけで35人分。作業速度を考えれば70人分以上の仕事をする。

 「そうやって、一人で70人分の仕事ができれば、あとの69人分で土地を買えるのは当たり前でしょ」と勝部氏は規模を拡大ができた理由を説明する。


運は手前でしか掴めない


 麦を本格化させる以前の勝部農場には、まさに時代や消費ニーズを先取りして様々な経営展開を経験してきた歴史がある。

 先代の徳太郎氏は、H・フォード自伝を読み「市場や民衆がどんなものを欲しているかを考えて農業生産と販売戦略を立てるのだ」と言い、まだ食料難の終戦直後にイチゴを作り大きく当てた。そして、23、24年頃には「もうそろそろイチゴも終わりかな」といって、止めてしまう。イチゴに平行して花を始め、やがてそれが中心になった。カーネーションなども作ったが、ダリヤが中心になっていた。ダリヤである理由は、それなら切り花で売って、球根も売れたからだ。なぜなら暮らしが安定するにつれて人々は庭に目をやる余裕が出てくるという判断だ。それまでイモを植えていた庭に花を植えるようになると読んだのだ。

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