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農業経営者ルポ

自分の目の中に灯台と顕微鏡を持て

 食料難の時代だ。当たり前に作れる米や麦を作っても闇値で売ればもっと簡単に儲かると考える農民も少なくなかったはずだ。でも、徳太郎氏は正々堂々とビジネスとしての農業に徹したのだ。そんな時代だからこそ、手に入れ難き物としての食の贅沢(イチゴ)、そしてささやかな暮らしの贅沢さ(花)に需要があると考えたのだ。

 昭和20年代である。日本人がまだ飢餓の中にいる、あるいはそれからやっと解放されようかという時代だ。まさにフォードが考えた事業家の理想と戦略を北海道の村で体現する農業経営者がいたのだ。

 しかし、徳太郎氏は経済が安定するからイチゴがさらに儲かるとは考えなかった。戦地から人が戻れば高級野菜やイチゴを作る人や労力も増え生産量が増すという判断からだ。引き際も鮮やかだった。

 征矢氏が取り組んだ早出しバレイショも同じだった。

 収穫は完全に育てるのの3分の1にしかならない。でも、収穫労力も3分の1。しかも、その収入はベラボウだった。まだ、イモの貯蔵技術が確立されていなかったからだ。出荷先は道内では札幌、室蘭。でも主流は3大市場だ。毎日、20tトレーラに1台、25t位を積んで東京、大坂、名古屋に順送りに出荷するのだ。出荷量が多いので市場を専有あるいは価格を支配できた。

 当時、デンプン用で50kg300円、時期に出す食用のバレイショでも50kgで700円から1000円(10kgで140円から200円)の時代だから、10kgで700円から1200円で売れば収量が3分の1でも、はるかに儲かった。他からも大量に出回りだして700円を下回ったら出荷を止めていた。作期の早い府県の産地に対しては出荷攻勢をかけて価格を下げてしまう。だから勝部のイモが来たと止めてしまう。少しくらい安くても扱っている量がだから喧嘩にもならないわけだ。

 皆がやりだしたら「どうぞお願いしますと止めた」。その切り替えが肝心なのであり、そこに顕微鏡の目が必要なのだ。

 徳太郎氏はその事を「『運』の神様はオデコにしか毛が生えていない。後ろ頭はツルッ禿げ。運は手前でしか掴めない」と言っていたそうだ。


麦を作って畑を作った


 「自分の目の中に灯台と 顕微鏡を持て」

 勝部農場の経営計画と戦略立案を行ってきた経営者としての視点を、征矢氏はそう表現した。「30年後でも通用する長期展望と同時に今を緻密に見つめる目を持て」という意味だ。それは、賃耕や早出しバレイショの収益を土地の拡大や基盤整備に投入してきたことの中にも現れている。

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