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江刺の稲

食べる人のために!

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第38回 1999年04月01日

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自給自足の社会だった頃を想像してみよう。人は家族(食べる人)のために狩りをし畑を耕したであろう。しかし、農耕や狩りをするために食べる者を求めたりはしなかったはずだ。
 自給自足の社会だった頃を想像してみよう。人は家族(食べる人)のために狩りをし畑を耕したであろう。しかし、農耕や狩りをするために食べる者を求めたりはしなかったはずだ。

 農業は「食べる人(消費者)」のためにあるのだ。農民や農業のために消費者がいるのではなく、農家自身を含めた消費者(食べる人)のために農業や農業経営者は存在しているのだということを我々は忘れるべきではない。

 これまで農業界や農家は「農業者の生活権」を語ることには熱心であっても、どれだけの重さで「食べる人のために」と考えてきただろうか。

 さらに、農業に技術やサービスを提供する企業においても、生産者としての農家に物を売ることは考えても、消費者の顔を思い描く想像力に欠けていたのではないか。

 現在の農業とその関連産業が危機だというのであれば、農業そして農業関係者は、まず自らの存在理由を問うことから始めるべきである。農業が誰のためにあり、そして、我々は必要とされているのか、と。

 消費者は農業に対して様々に期待を持っている。しかも日本の農産物が求められているのだ。にもかかわらず、政策的保護に甘んじて「食べる人(消費者)」の立場より生産者の利害を優先してきた。同時に、農業の世界では競争で自らを磨くことより被害者意識を共有しつつ横並びの安楽さの中に安住しようとしてきたとは言えないか。そのために、農業界は道を見失っているのだ。農業関係者の言葉の中には、「農業を守るのは消費者の責任である」かのように聞こえるものがある。しかし、それは農業界の甘えであり、あくまでそれは農業者の責任なのだ。顧客に必要とされる仕事は必ず顧客によって守られるのである。

 一方、こんなことを言う人がいる。

 「農業の世界も力の強い者だけが勝ち残るサバイバルゲームの時代だ」

 彼はやがて居るべき場所を失うであろう。


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