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農業経営者ルポ

豊かさのおすそわけ

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第41回 1999年06月01日

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痩せた4反5畝の畑から



 東京の池袋で幼稚園を経営していた義父が、病気の療養のためにこの地に移り住んだのが女化での高松家の始まりだった。高松さん自身は昭和27年、先に養女として高松家にいた奥さんと22歳で結婚。その時すでに義父は亡くなっており、ただ4反5畝の畑があるだけだった。高松さん自身も農作業の体験が無かった。夫婦養子の形でまったくの素人の若い夫婦が、新開地に開拓に入ったというべきだったのだろう。今で言えば、異業種からの新規就農者である。

 水田の無い女化。高松さんは、陸稲しかできないような痩せた畑で落花生と麦を作りながら畑を増やしていった。どんなに頑張っても農家で育った人たちと同じ仕事はできなかった。他の農家のように上手く作業が出来ないからこそ、作業の工夫や機械化を考えた。ただ前例に従うことではなく果敢にチャレンジをしながらも、変えようも無い自然や人の絆を守ろうとしてきた。

 昭和40年代始めには、約2haの畑に落花生と麦(当時は麦の間作で落花生を栽培した)を作り、それに繁殖の豚を飼うという経営になっていた。当時の落花生は米と同じ程度の価格で売れたが、春の収入が無いことが苦しかった。それが竹の子を始めた理由だった。

 後年に至っては高松さんの経営は水田での稲麦作が中心になった。でも、それは稲作の機械化が進んできた40年代末からのことだ。最初に水田を手に入れたのも飯米用の8畝の田が最初だった。昭和47年のことだ。稲作に本格的に参入したのは田植機が開発され、それを買ってからのことだった。

 畑作地帯の女化にいながら稲作への可能性を持ち続けた高松さんは、その後、水田を少しづつ買い求めたが、経営としては借地による規模の拡大が中心だった。

 水田での稲麦作や様々な畑作経営で高松さんは確実に経営成果を上げて行った。

 地域農家への働きかけにも熱心だった。様々なメーカーを呼んでの研修会を開いたり、共同防除の組織を作ったり、共同しての機械の購入などもした。麦や大豆を作る高松さんが中心となり、野菜農家とともに畑での交換輪作にも取組んできた。

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