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江刺の稲

「行商」に学ぶマーケティング

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第42回 1999年08月01日

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 トラックに乗せた品数は、スーパーなどと比べて少ないかもしれない。値段だって必ずしも安くはない。冷ケースなど使わないし、ディスプレイだってトラックの荷台そのままだ。にもかかわらず、現代の行商人が顧客を得ている理由は、彼ら自身が何時もお客と顔を付き合わせている農家であることの信頼、そして、彼らのトラックにはどんな大きなスーパーや町の八百屋さんでも伝えきれない農業や土の情報(言葉)が一緒に積込まれているからなのではないか。そこに売り手と買い手、畑と台所を結ぶ、信頼あるいは安心のマーケティングがあるからではないのか。

 出始め枝豆は小さな束にして値頃感を出して旬を届け、時期になれば大きな束で値段を変えずにお客さんを嬉しがらせる。やり手の奥さんが販売員としての力を発揮する脇で、ご主人がポットに植えたナスやトマトの育て方をお客さんに教えている。お客さんの質が商売人を育てることもあるだろう。鮮度や品質には自信がある。喜ばれるから嘘は付けないし、お客さんが何を喜ぶかを肌で感じることができる。だから、さらに品質が上がっていく。茨城の人なのに福島のモモや長崎のビワを持ってきても、また、スーパーより値段が高くても、その夫婦ならとお客さんは納得しているのだ。

 彼らは、流通業界の人々が語るマーチャンダイジングだとかロジスティックスとかマーケティングなんて言葉なんて聞いたこともないかもしれない。もちろん、行商は一人の中で完結できる小さな商売だから問題も少ないわけではある。

 分業や流通の合理化は当然だ。だが、そんな言葉を使って流通改革だ、食材調達だ、有機の認証基準だ、認証機関だなどと言っている流通・小売業や外食業のビジネスマンと多くの農家は、現代の野菜行商人たちに学ぶことが多いと思う。

 彼らが自ら育てる農家でありながら当たり前の商売人として体で覚えてきたこと、商売の喜び、そして彼らを待ち受けているお客様の信頼とそれに対する他に転嫁を許されない責任を。

 彼らがお客様に対して一人で背負っている責任を、多くの農産物流通に携わる人は分業と合理化というきれいな言葉によって、責任を他人に預けてしまっていることはないだろうかと。

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