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特集

息子よ!後継者は君じゃなくてもよいのだ

継ぐ動機は人間的なものであってこそ


昆:皆さんが農業を継ぐきっかけについてお伺いしたいと思います。皆さんはどういう動機で就農され、そのとき葛藤はあったのでしょうか。

横森:私の場合、農家の長男だから勉強する必要がないということで、勉強させてもらえなかった。ところが20歳の頃、自分の実力を試してみたくなり、海外へ出ました。派米農業労務者ということで3年間研修を受け、海外で農業に目覚めて帰って来たところ、日本は高度成長の時期で、親父は百姓なんてする必要ない、勤めろとなった。少し勤めたのですが、学歴がないと一生懸命やっても田舎の工場では給料は少ない。これは馬鹿らしい。じゃあ自分で事業を起こそうということになった。それで家内工業を始めました。しかし農業が一番いい、農業が本当に自分に合っていると。農業が魅力があるということでチャンスをもらったんです。

昆:小野寺さんも同様に、海外へ行っていらっしゃいますよね。その前に農業学校も行ってらっしゃるのですが、北海道で農業をやっていくことは、海外へ行く前から意識しておられたのですか。

小野寺:私たちの学校時代には、なりたい職業がたくさんあったのですが、学校を出る時には農業がやりたいと思いました。一番先に夢見たのはドイツの農業でした。とにかくドイツやアメリカの農業を学びたかった。当時、北海道農業も転換期だったのです。大型トラクタが入り、大型の酪農機械、酪農システムが入って来た時期でした。北海道の農業だったらアメリカの農業と同じくらいのことができるんじゃないかと、夢だけを持って1972年にアメリカへ渡ったのです。アメリカの農務省がお金を出してくれて、農業経営ばかりではなく、いろいろな経営を学びました。トラック会社の方も荷受業者もいました。様々な事業の経営者としての能力を学ぶ研修だったものですから、経営のことばかり学びました。そんな体験を持って日本へ帰って来てみたら、180度違う。その辺ではだいぶギャップがあり苦労しました。

昆:木内さんは、農業を継ぐことに関して、違和感とか他にやりたいことなど、なかったのですか。

木内:はっきり言いますと、やりたいという気持ちは全くなかったんです。家の経営だとか親父が苦しいだとかに関係なく、正直なところ思いっきり遊びたかった。後継者になり家の農業を継ぐという考えは、大学を卒業して半年位まではなかったですね。時代はバブル絶頂期、世の中は人手不足で、いろいろなところから誘いがあったのは事実です。でも何にもやる気がなかったのです。卒業してやることがないので、うちの農業を手伝っていたという状況でした。私は今でも憶えているのですが、その冬、親父が出稼ぎに出ていて、お袋と二人でニンジンを詰めていた時、「父ちゃんが働きに行って賃金貰って、私らが毎日1万円の野菜が売れたらいいな」とお袋が言った言葉が今でも印象に残っています。我々兄弟はそうして育って来たんだと、初めてその時気付きました。もう一つ、我々が学生の頃は、お袋が一人で1ヘクタールのニンジンを間引いていました。多分20日か1ヶ月位かかったと思います。私が就農して1年目のある時、一緒にやりまして、面積は同じですが、お袋にしてみれば二人なんですよ。だから、お袋の足取りは速いわけなんです。ところが私は、腰を曲げてお袋の後をついていくことができず、「早く10時にならないかな」とか、「早く昼にならないかな」と考えてばかりいました。その時に初めて、自分の親も大したもんだなと思いましたね。この二つが今でも印象に残っています。ですので、就農するきっかけだとか目的だとかいったものは、私にはありませんでした。

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