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農業経営者ルポ「この人この経営」

「ゆとり」と「ゆめ」と「おもてなし」

「これだけの資金で観光農園をやりたいんです」。郷里に近い岐阜県・恵那郡の信用金庫で、ペンション売却で得た資金を融資担当者に預けた。「あの人の力がなかったら、この土地を見つけることはできなかった」。妻と二人、1日20時間労働で1ヵ月半かけて開墾した2.2ヘクタールの農園は、8年前に22名もの地権者から譲り受けた。一個人の力では到底無理な地権の取りまとめを、市川氏にかわって引き受けてくれたのが前述の銀行マンだった。現在この『ゆめ・大国』と名づけられた農園では、約300種類のハーブ類が栽培されている。
無職無収入で3年間かけ回りようやく見つけた就農地


 「これだけの資金で観光農園をやりたいんです」。郷里に近い岐阜県・恵那郡の信用金庫で、ペンション売却で得た資金を融資担当者に預けた。「あの人の力がなかったら、この土地を見つけることはできなかった」。妻と二人、1日20時間労働で1ヵ月半かけて開墾した2.2ヘクタールの農園は、8年前に22名もの地権者から譲り受けた。一個人の力では到底無理な地権の取りまとめを、市川氏にかわって引き受けてくれたのが前述の銀行マンだった。現在この『ゆめ・大国』と名づけられた農園では、約300種類のハーブ類が栽培されている。

 「ペンションをやっていたのは長野の黒姫高原。うちはスキーバスの発着場にもなっていて、ドライブイン代わりに使われていたのでシーズン中は大忙しだった。バスが着くのは早朝4時頃。スキー客が帰るのが夜中の11時頃。その間に宿泊客の世話もあるから、夫婦で手の空く時間は2時間くらいしかなかったな」

 ペンション経営を始めたのは、ちょうどペンションがブームになりかけていた76年。それまでの4年間は、名古屋で2つの美容室を経営していた。美容室もペンションも経営は順調だった。美容師時代には、当時まだ少数派だった男性美容師として男性客の獲得に成功。男が美容室に通う時代の先鞭をつけた。自然の中での生活を夢みて黒姫高原に移ったとき、まだペンションは1件しかなかった。バスによるスキーツアーが若者たちの冬の風物詩となる前夜、これ以上ないタイミングでの転身だった。

 「それなりに儲かってはいたけど、もっと生活のゆとりが欲しいと思うようになった。それにペンションもだんだん過当競争になってきて、見切りをつけるなら今かなと。年を取ったら体力的にもきついしね。当時から趣味でハーブを栽培していて、食事に出したりしていたんですよ。この際思いきってハーブ農園を作って、本格的に生産を始めようと決めた。ところがそれから3年間、適当な土地が見つからずに無職状態で全国を探しまわりました(苦笑)」

 郷里に戻ったのは、まったくの偶然。「ただ同郷のよしみで銀行の人も気を配ってくれた部分はあるでしょうね」。農業経験のない市川氏に、全国各地の行政はことごとく冷たかった。「新規就農者を受け入れている地域でも、歓迎されるのは20~30代で小さな子供のいる人でしょう。すでに私は40代の半ばで、一人娘は高校生になる頃だったからね。しかも花の栽培をやりたいとなると、これがまた前例がないということで難しい。野菜をやりたいというのなら、まだ話を聞いてくれる余地もあったのだろうけど」

 現在は新規就農者が花卉類を生産するケースが増え、行政サイドも目を向け始めた。しかし市川氏が就農した当時は、ほぼ孤立無援に近い状態。「それでも不安はなかった。自分で選んだ道だし、やりたいことは決まっていたからね。女房も考えは一緒だったよ」

 恵那に腰を落ち着けた91年、バブル崩壊とともに、人々の心は“癒し”を求めて大きく向きを変えようとしていた。まだ未知なるものだったハーブやガーデニングの世界が、経済戦争に疲弊した人々の心を潤す時代が近づいていた。


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