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大泉一貫の農業経営者論

共同体から「個」へ、変わり行く価値観

今月は共同体の崩壊と個の時代の生き方について語ることを先月号でお約束していた。
 今月は共同体の崩壊と個の時代の生き方について語ることを先月号でお約束していた。

 21世紀の農業は個の時代である。個の時代とは精神的に流浪する時代でもある。その流浪の為に人々は共同体の中に浸かっていたときとは異なった精神の強度を必要としている。農業経営者はなぜこうした流浪あるいは精神的漂流を経験しなければならないのか?今回はそれを論じてみようと思う。

●共同体の変遷


 大衆消費社会は大量生産時代とはその成り立ちからして異なっている。

 少なくても大量生産時代までの人類の歴史は「共同体」を必要な社会システムとしていた。それが大衆消費社会では消えてしまうのである。

 共同体は産業化の過程で消えてしまうとしたのは近代礼賛の戦後講壇学者達であった。彼らは産業化の過程を、封建的地域共同体、あるいは農村的集落共同体から個への自立の過程としてとらえようとした。農業から工業への転換は、通常農村から都市への人口移動を伴っていたために、一般的には農村的集落共同体から都市的個人主義(通常それを「市民社会」といっている)への転換としてきたのが通常の識者の見解であった。共同体を無くせば個が浮き彫りになると考えていたふしがある。しかし事はそう簡単ではなかった。

 農村的共同体に深く馴染んだ日本人の心情にとって、ふるさとを離れることは一種の根無し草になることをも意味し、その不安感をどのようなもので代替できるのかが重要なことであった。それを提供したのが会社であり「職場共同体」であった。

 当初は県人会的なかつての「ふるさと共同体」に身を寄せていた都市移住民も、徐々に終身雇用制によって存在を一から保障される職場に身も心も捧げる会社人間となっていく。「企業城下町」「一家主義」「家庭的な職場」などという表現はまさに共同体の代名詞のようなものであった。我が国の産業化は、いわれるような封建的集落共同体から近代的個人への転換によって成されたのではなく、農村から職場へという共同体の組み替えによって成されたと言って良い。「職場共同体」が出入り自由なものであったならば、そこに個の生じるチャンスもあったのだろうが、いかんせん我が国の会社は終身雇用制であり、逆に運命共同体としての性格を強化することとなる。それがいわゆる「日本型経営」と言われるものの本質であろう。

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