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祈りの大地

「北海道稲作の父」中山久蔵

大学時代の先輩が、北海道で農業改良普及員をしている。
 大学時代の先輩が、北海道で農業改良普及員をしている。「生産調整が厳しいうえにMA米が北海道の稲作に打撃を与えている。いまは奨励金があるが、野菜や花卉への転換も頭打ちだ。米以外に作るものがないし、農家は米を作りたい」

 北海道の稲作の歴史はわずか一世紀あまりと短い。だが、大凶作に泣いた平成五年でさえ三十五万トンの生産量があり、都道府県別では新潟、秋田、山形、茨城に次いで全国第五位という米所。夏の短い、栽培条件の厳しい最果ての地で、これほど大量に生産されているのは驚きだ。なぜ日本人はそれほど稲作にこだわり、困難な米作りに挑んできたのか。

 そうはいっても、いまもそうかも知れないが、政府は稲作への執着を持たなかった。明治二年に開拓使が設置され、翌年、開拓次官に就任した黒田清隆は天皇の許しを得て渡米し、北海道開拓の道筋を与えてくれる助言者を探した。そして現職のアメリカ農務長官ホーレス・ケブロンが開拓顧問に招かれるのだが、ケブロンが指し示したのは従来の稲作中心の農業からの決別であり、当時、アメリカ東北部で主流となっていた家畜と畑作の混合農業の導入であった。

 北海道は明治の欧化政策のいわば実験場であった。明治九年に札幌農学校(現在の北海道大学)が設立されたとき、黒田は開校式で、欧米の科学的農業を摂取し、普及させることが必要だと訴えた。同校の寮の規約には「米食を食すべからず」と明記されていたほどで、開拓使は北国の稲作の展開にはまったく関心がなかったのである。

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