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祈りの大地

「北海道稲作の父」中山久蔵

 しかし民間人は違う。そして前人未踏の米作りに挑戦した「北海道稲作の父」として、中山久蔵の名前を忘れることはできない。

 文政十一(一八二八)年、河内国に生まれた久蔵は、維新前は仙台藩士に仕えていたが、武士の時代が終わると四十二歳の厄年を機に、北海道への単身移住という一大決心の末、なんと無一物で島松(シママップ。今は北広島市)に入植、六千坪の開墾を始めた。奇しくもケブロン来日と同じ明治四年である。

 久蔵は粗末な小屋に住み、寒さと飢えと孤独に耐えながら、寒地稲作に取り組んだ。三年目の明治六年には、寒さに強いという芒の赤い赤毛種の種籾を渡島地方から取り寄せ、一反歩の水田稲作を試みた。しかし五月に蒔いた籾はなかなか発芽しない。風呂の湯を沸かし、昼夜、苗代に流し入れてみた。かたわらを流れる島松川の水を暖水路で温め、水田にひいた。涙ぐましい苦労と粘りがようやく実り、ついにこの秋、二・三石の収穫が得られたという。

 三年後、アメリカ・マサチューセッツ農科大学の学長ウィリアム・クラークが札幌農学校の教頭に着任する。翌明治十年、クラークは「少年よ、大志を抱け」の名セリフを残し、学生に別れを告げるのだが、その駅逓こそじつは久蔵の自宅であったという事実は、奇遇というほかはない。片や欧米型農業ばかりか、キリスト教教育までも導入したクラーク、片や伝統的な稲作にあくまでこだわり、成功させた久蔵。そして、クラークは帰国し、久蔵の米は開拓移民を通じて北の大地に着実に根づいていった。

 久蔵の成功の喜びと重みを象徴するできごとは、明治十四年九月、東北・北海道を御巡幸中の明治天皇が久蔵宅で休憩され、昼食を召し上がったことである。久蔵は親しく御下問に接し、七年の間に収穫した稲穂などをお見せした。「金三百円、並びに御紋付き三つ組み銀杯」を賜った五十四歳の久蔵は、天恩のありがたさにただただ感涙にむせぶばかりであった、と伝えられる。

 この御巡幸が転機となり、開拓使は幕を閉じ、北海道庁が生まれる。当初は庁内に米食禁止令が出され、稲作を試みた農民が投獄されるということさえあったが、道庁は二十六年に稲作試験場を開設し、寒地稲作の推進を決める。「米を作りたい」と願い、成功させた民間人の汗と涙を無視できなくなった結果である。

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