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【農業経営者ルポ「この人この経営」】
カタカナの似合う大都市農業
- 吉田典生
- 第11回 2000年05月01日
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小学生時代から畑でアルバイト事業としての農業を教えられた
「後はおまえに任せると言われた時は、いよいよ来たかと思いましたね。正直言って、まだ心の準備は出来ていなかったけど…」
露地野菜で営農して35年、父の繁治さんから息子の要規さんへ、正式に経営のバトンが受け渡されたのは2年前。そして要規さんが最初に取り組んだのが法人化だった。
「新たに人を雇いたかったので、ともかく社会的な信用を高めたかった。でも法人にするとなると、就業規則をつくるのがいちばん大変でした。いろいろ事務手続も増えたし、余分な仕事が多くなる。だけどその分、一般企業に近づけたと思う。まだ道半ばですが、少しは農業の暗いイメージも改善できたかな」
その足がかりは父の時代にある。昭和55年に連棟式のハウスを建設、コマツナの契約栽培をスタートした。初めて日給で人を雇ったのがその翌年。他の生産者とともに共同出荷のための堺市野菜園芸組合を設立。大手スーパーとの直取引で次第に規模を拡大し、コマツナ専業の生産者としての基盤を固めた。
「仕事は小学生の頃から手伝っていました。ちゃんとお金をもらうアルバイトとしてね」
父は息子に手間賃を与えることで、家業ではなく事業としての農業の理念を植えつけた。大学卒業後、父の元でのアルバイトを経て、正式に要規さんは“就職”する。ごく自然に「就職したんですよ」というフレーズが、本人の口から出てくるところが面白い。
「私が就職した時からウチは月給制。当時は今より休みが少なくて、日曜とお盆、正月だけでしたけどね。でも昼休みになるとチャイムは鳴るし、役割分担もきっちり決まっているし、自分でもサラリーマンと変わらないなと思っていた(笑い)。もし父が旧来的なやり方をしていたらですか?うーん、たぶん別の仕事に就いたでしょうね」
要規さんにとって法人化は改革ではなく、ごく自然な事業継承の道筋だった。「農業はビジネス」という思想が心と体に刻み込まれているようだ。
「でも仕事がラクそうだったから継いだわけじゃありません(笑い)。この仕事を選んだきっかけは、『人間だれにも胃袋はあるんだから、食べ物を作っていたら間違いないんだ』という父の言葉でした」
繁治さんは連作障害を避けるために環境保全型農業に取り組むなど、要規さんの時代を見据えた経営の種まきも周到に行なってきた。総合施設資金などを利用してハウスを増設、平成8年にはスーパーL資金を利用して、延べ262m2の作業所兼事務所が完成した。企業農業の土台を整えた上で、21世紀の経営を息子に託したのだ。
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