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農業経営者ルポ「この人この経営」

僕の前に道はない、僕の後に道ができる

まだ花崗岩の黄土色が剥き出しの真新しい開墾地は圧巻だった。幅4mに整地された段々畑は、道が一筆を描くようにつながっており、将来は木と木の間にも、作業車が入る耕作道を作るよう設計されている。
 まだ花崗岩の黄土色が剥き出しの真新しい開墾地は圧巻だった。幅4mに整地された段々畑は、道が一筆を描くようにつながっており、将来は木と木の間にも、作業車が入る耕作道を作るよう設計されている。

 畑地には、柿の若木が植えられたばかりだ。

「夢を植えとるね」

 小ノ上さんは顔をほころばせる。

 この開墾地は、この春大学を卒業し、弱冠20歳で後継ぎ宣言した三女、恵さんへのプレゼントだ。4月の恵さんの帰郷に合わせ、小ノ上さんは2月からほぼ毎日ここに通って、2haの山を崩し土を盛り、道を作った。

 ただの道ではない。30年前小ノ上さんは始めて山林を買い、試行錯誤しながら、いまの機械化農業の土台となる園地を自身で開拓してきた。その親父の軌跡とノウハウすべてが、娘に贈られるこの造園に注ぎ込まれている。今年から、親父と娘二人三脚の農園経営の夢が始まろうとしているのだ。


機械化への道


 少年のころ、ブルドーザーの運転手になりたいと思っていた小ノ上喜三さんが、実家の農業を継いで、機械化農業に目覚めたのは21歳のころ、山梨のサントリーの農場を見学したときのことだ。広大なぶどう畑を自在に走るスピードスプレーヤ(SS)に感動した小ノ上さんは、「あれだ!俺はあれを使う百姓になるんだ」と心に決めた。

 実家はしいたけ栽培が主体だったが、柿とスモモに転換しようと考えていたときで、早速近隣の山を購入し、造園を試みる。花崗岩の土壌は雨で土が流失しやすく泣かされたが、小ノ上さんはあきらめなかった。遂に昭和58年、階段耕の柿園に憧れのSSが通る幅1.5mの耕作道を作ることに成功する。当時誰も車で上がれなかった山のてっぺんに、バックホーで林内作業道路をいち早く作ったのも小ノ上さんだ。

「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできるという感じだったね」

 SS導入後も、機械に合わせた園地づくりのため、コツコツと改造を重ね、全園の作業道を3~5mまで拡張した。高所作業車、乗用草刈機などが楽々通り、機械で作業ができない死角はほとんどなくなった。

 柿の産地、杷木でも標高の高い小ノ上さんの土地は、決して恵まれた環境とはいえなかった。急斜面の畑に耕作道を作ることは、手間も熟練も必要だ。しかし少しも苦労じゃなかったと小ノ上さんは首を振る。「楽しかったですよ。手間やお金をかけても、できれば一生使えるし、こんな安いものはない。みんなも分かっていているけど、やらないだけ」。

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