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江刺の稲

ピエロと化す往年の名選手たち

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第65回 2001年07月01日

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 ラジオにかじりついて野球を聞いていた時代、アナウンサーが呼ぶその名前を憧れと共に聞いた人物。僕にとっての始めての野球観戦だった東映フライヤーズ対南海ホークス戦。薄暗いナイター設備の駒沢球場左翼席で、目の前に立っていただぶだぶのユニホーム姿に見とれ、家に帰ってもその独特の仕草を真似たスラッガー。かつて憧れた名選手がメディアでピエロを演じている姿に、僕は終戦を知らず南の島で命じられるままひとり取り残されて戦い続け、現代の浦島太郎となって日本に戻り、挙句はメディアと政治の玩具にされたあの下士官と同じ哀れさを感じる。

 彼らは日本人の誰もが貧しかった時代の成功者であり、そこでの成功体験や大リーグに対する劣等感を土台にした話しをしているのだ。でも、彼らが手にした豊かさや彼らを満足させた小さな村内での名声を餌にチャレンジャーたちを押し留めようとしても、イチローや新庄は日本の野球界示された破格と思われた契約金や安泰の地位には目もくれない。それは、彼らが異星人だからではなく、未来への挑戦に生きているからなのだ。そして、彼らが求めているものとはそれに取り組むことからしか与えられない「誇り」だからである。彼らは、老人たちがそれを手段として自らを励ました大リーグへの「劣等感」など持ち合わせていないのである。そして、未来を切り開く若者に与えられるべきものは、唯一、彼の「誇りを擁護すること」である。

 人は銀シャリの丼飯に目の色を変えないのだ。時代をリードする若者は村役場や中小企業の玄関に銅像を建てて貰う身分に出世することを望んではいない。しかし、農業の世界を典型として日本の社会や企業をリードしている人々の論理とは、それに憧れた時代の論理や精神を一歩も出ていないのだ。

 とりわけ農業とその関連業界には、TV番組で名選手たちが演じているのと同じ精神構造を背景にしている人々が山ほどいるのである。そして、僕白身を含めて、人はあの往年の名選手と同じ役柄を演じてしまう性を持っているのである。

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