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農業経営者ルポ「この人この経営」

『食べる人のことを考えながら、地域の資産を継承していきたい』

山形県の庄内空港から、木村九郎右衛門農場がある鶴岡市矢馳まで車で約 40分。車窓からは庄内平野の広々とした田んぼが一面に広がる。木村充さん(36)は、木村九郎右衛門の22代目当主。現在、だだちゃ豆(22ha)、米、ネギなどを両親と共に作っている。だだちゃ豆の中でも一級品とされる「白山だだちゃ豆」の本場である。この地区を流れる湯尻川が上流から運んできた沖積土壌が、「最高の枝豆」と言わしめる豆を作り上げてきたのだ。
消極的な転作などやりたくない


 今から13年前、木村さんは大学を卒業してすぐに就農した。

「その当時、新規就農者数は最低レベルでした。全国で1200人ぐらいだったと思う。この人数でどうやって日本の農業を守っていくのかと思ってね。まじめに就職活動しなかったのもあって」と木村さんは照れながら言う。

 就農をしたものの、生産現場を見渡すと減反、減反で明るい話題はなかった。当時の九郎右衛門農場でも、だだちゃ豆は転作作物の一品目にすぎず、栽培面積も一反歩ほどだった。

 今でこそ全国的に知られるようになっただだちゃ豆だが、木村さんが就農した当時は、地元の人が食べるか、県外に出ている地元出身者に贈るぐらいだったと言う。しかし「転作だから仕方なく作るのではなく、前向きにだだちゃ豆に取り組もうと思った」と当時を振り返る。

「僕はとにかくだだちゃ豆が好きなんです。子供のころ、大きなざるに入った豆を、一人で全部食べていたらしいですよ」

 豊作による大暴落で、泣く泣く豆を畑に鋤きこんだこともあったと言うが、10年ぐらい前からクール宅急便なども普及し始め、全国に配送できるシステムが整うようになった。

「これなら地場だけで捌くことができなくてもやっていける」

 木村さんは、さっそく鞘を外す機械を導入し、だだちゃ豆の面積を徐々に増やしていった。

 しかし、自分の好きな作物を作るようになっても、木村さんは釈然としなかった。

「商品としてのだだちゃ豆と、転作作物としての大豆などを比べると、労力のかかり方は何倍も違う」

 至って当然のことなのだが、何といっても米どころの本業は米であって、その他の作物は副業に過ぎない。その副業であるだだちゃ豆に労力を投入することに対し、家族を含め、周囲から理解を得るのは簡単ではなかった。

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