ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

特集

経営者たちの農業改革 人からはじまる村おこし・町おこし

中沢 そういう意味でも、団塊の世代が作ってきた高度経済成長の制度的枠組みは、全部終わっていますね。製造業でも昭和30~50年代では、まだ粗っぽい技術で済んだのです。たとえば洗濯機や冷蔵庫を作る技術では、1ミリくらいのズレなら我慢できました。それがカラーテレビになると100分の1ミリ、パソコンになると1000分の1ミリのズレに抑える技術が必要になってきたのです。そのようにレベルが上がるにしたがって、技術のない企業は淘汰されたわけです。同様に商業も「人通りがあるから、この場所で店を始めよう」と開店させた経営者は、人通りがなくなるとともに店を閉める以外ないのです。

大泉 農業でも「これは需要が伸びるからね」と農水省に言われたモノを作っていれば売れる時代がありました。しかし、もはや中央集権的な一つの大きな社会でやれば何とかなるという「数で対応する」時代ではありません。多様なアイディアを出し、小回りを効かせて、お客さんや市場に問う時代が来ているのだろうと思います。ですから農業の中で注目しているのは「集落でどうすれば様々なアイデアを受け入れる素地を作り、業を興せるか」ということです。たとえば農家のおばさんたちが農家レストランや販売場を始めたりしてますよね。あれは、細々ですが事業をやることの喜びを感じ始めているんですよ。

自立した人間だけが輝けばそれでよい

中沢 話しは変わりますが、中国からのシイタケやネギに対するセーフガードの問題が起こっていますね。日本が輸出しているクルマー台分と輸入するシイタケの額を比べれば分かるように、日本の方が圧倒的に輸出をしています。ですので日本としては本来、クルマや半導体を買わないぞ…、とごねられたら困るのではないかと思うのですが。

大泉 農家は不利な時には「大変だ!」と叫び、有利な時には黙っているんですよ。それと、「なんで中国の農家と手を組むのか」という問題で、たしかにコストの問題がありますが、それだけではなくて、食材を提供するためのビジネスモデルを受け入れてくれるのは中国の農家で、日本の農家ではないということがあるのではないでしょうか。農業は農家のものではなく、本来の国民のもとに取り返す必要があると思うのです。

中沢 そうですよね。農業にもたくさんビジネスチャンスはあるはずだと思うのです。私は書評の仕事をよくするのですが、井上ひさしさんの農業論を読んでいて非常に違和感を感じたのです。農業がいかに大事かということをたくさん語っているのですが、社会的意義という点だけであればどんな産業にもあるわけです。はっきり言って、そんなに辛いだけ四仕事なら辞めた方がよいのではという感想を持ちました。

昆 だから、あなたたちに農業をやってからいたくないという人が増えてきているわけですよ。今は農家以外は農業ができないシステムになっていますが、もっと国民にオープンにして、農業をやりたい人をどんどん募集できるシステムにすべきだと思うのです。そうしないと農業に新しい知恵も入ってこないですよね。それと、これは農業に限らず中小企業や商店主の方でもあるのでしょうが、やはり誇りのある家には誇りのある子どもが育つものだと思うのです。家業を継がずに別の仕事をしていても、親の誇り(生き方)をこの人は持っているなと感じることがあるんですよ。そのように誇りを持って農村に住み、農業を家業としている方は、目線の揃った別の地域に住んでいる人や異業種の方々と出会うことで、いろいろな変化が起きてくるものなのだと思います。どこの社会も集団も、その中で自立的に変革が起きるのではなく、異質のモノと触れることによって変化が起きますから。

大泉 それをするためには、そこでどんな仕事が必要なのかということを考えられる自立した人たちが必要とされてくるのでしょうね。農家には「国家依存的人間」と「集落依存的人間」と「自立型人間」の3タイプがあると言われています。しかし、自立型の人間が非常に少ないんですよ。たとえば製造業のように、自分の産業のことを一生懸命考えられるような人が、農業にもたくさん必要なんです。かつては知識を農村の中に普及させる人がいましたが、農地改革以降、そのような人が少なくなってしまった。

関連記事

powered by weblio