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女だからの経営論

バリバリ編集者から茶農家へ

初めて水俣の吉野啓子さん(53歳)と会ったとき、日は既に西に傾いていたのだが、最初に案内されたのは、家でも畑でもなく、海だった そこはかつて水銀で汚染された水域を埋め立ててつくられた親水公園。名もない石仏が何体も並んでいた。「これはね、水俣病の患者さんたちが彫ったものなのよ」そうか。水俣病が発見されて40年余。直接被害者の声を聞く機会は少なくなったけれど、患者さんの傷み、苦しみ、悲しみがここに刻まれているんだ。振り向けば穏やかな海が夕日に染まっていた。水俣病の舞台となった不知火海である。目の前に広がる光景は、「公害の町」とは、あまりにもかけ離れていた。
バリバリ編集者から茶農家へ


 初めて水俣の吉野啓子さん(53歳)と会ったとき、日は既に西に傾いていたのだが、最初に案内されたのは、家でも畑でもなく、海だった――

 そこはかつて水銀で汚染された水域を埋め立ててつくられた親水公園。名もない石仏が何体も並んでいた。

「これはね、水俣病の患者さんたちが彫ったものなのよ」

 そうか。水俣病が発見されて40年余。直接被害者の声を聞く機会は少なくなったけれど、患者さんの傷み、苦しみ、悲しみがここに刻まれているんだ。

 振り向けば穏やかな海が夕日に染まっていた。水俣病の舞台となった不知火海である。目の前に広がる光景は、「公害の町」とは、あまりにもかけ離れていた。

「いいとこなんですねえ。水俣って」

「そうでしょ」

 波打ち際を、啓子さんが、素足でバシャバシャ歩いている。まずは水俣の再生ぶりを私に見せたかったのだ。でも彼女は生粋の「水俣人」ではない。

 水俣の水銀汚染地区の埋め立てが完了したのが90年。啓子さんは、奇しくもその年に、祖父の代から70年も続く茶農家の三代目、幸男さんと結婚。翌年水俣へやってきた。

 それまで啓子さんは、東京の出版社に勤め、17年間手芸や料理の本を作り続けたベテラン編集者だった。当時の東京といえば、バブル景気のまっただ中、誰もが浮き足立っていた。そんな日々に、「どこかおかしい。異常だ」と感じていた矢先、知人を介して幸男さんと知り合う。一方、農家の長男として育ってきた幸男さんも、意識的に「異業種」の人間と交流を広げようとしていた。お互い「自分にないもの」を求めてめぐり会ったのだ。

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