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新・農業経営者ルポ

危機を救ってくれたのは家族とお客様だけだった

任意団体の破綻に先立つ84年、鈴木は(有)農作業互助会を設立していた。鈴木博之・せつ子夫妻、そして川越尚治・志保子夫妻と二夫婦四人の法人である。現在は約13haでのコメ生産と販売、約30haの収穫調整を中心とした作業請負を行なっている。さらに07年12月には、2600万円を投資し、LGCソフトを原料米とする加工場と店舗を兼ねた団子屋を開店した。その加工場の責任者として、もう一夫婦を加えた三夫婦六人の経営に発展させようとしている。

任意団体の経営破綻。競売、裁判、和解勧告、そして経営再建への道のり。冷え切った村内での人間関係。その中で深まっていく家族の絆や、顧客や異業種の人々の支援……。

村社会、農協との軋轢の中での経営危機は、地域や親族を含む人間関係に悩むことでもあった。だが、そんな困難を経験すればこそ、鈴木は農民から本物の事業経営者に成長できたのだともいえる。


農協を訴える

農業高校を卒業して数年、鈴木は運送会社に勤めていた。しかし会社勤めを始めた父に代わり、23歳で農業を始めることになった。34年前のことだ。当時は3haの水田があれば、十分な収入になった。母と二人での稲作であり、田植えや収穫に人手を頼めば、持ち出しも大きくなっていった。若い鈴木はより発展的な農業をしたいと考えた。

機械化が飛躍的に進む時代だった。鈴木も機械化による省力を進めるとともに、作業請負の新事業に取り組みたいと考えた。

農協の勧めもあって、鈴木が農業機械の共同利用と作業請負を目的とする組織を作ったのは、76年のことだ。五戸の農家との共同事業だった。作業を受託する推進(営業)活動は、農協が担当することになっていた。コメの出荷も当然のことように農協だけだった。

しかし、やはり農協の勧めで組織された二つの受託集団との競合で、鈴木らの組織は経営が行き詰まることになる。鈴木ら以外の組織に仕事が流れ、鈴木の組織には仕事が回ってこないのだ。

「恨み言のように聞こえるかもしれないけど、ほかのグループの方が有力者との人脈が深く、農協の後押しが強かったのかもしれないですね。でも、今になって考えてみれば、他人に営業を任せて自分は仕事が来るのを待っているなんて、経営じゃないですよね」と鈴木は笑う。

売上が上がらない、人件費がかさむ、採算が取れない、返済ができない……。追加の融資、そしてその返済も滞り、借金はどんどん膨らんでいった。参加していたほかの農家は、農業をやめるといって組織を離れていった。残ったのは、鈴木と川越の二家族だけになった。

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