ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

特集

未来づくりのための“創造的”引退論

若葉への移り変わりの鮮やかさ故にその名前を持つ“ゆずり葉”という名の樹木をご存知だろうか。それを教えられたのは先年亡くなられた滋賀県中主町の故・中道登喜造氏からだった。すでに経営は長男の唯幸氏(当時34歳)と次男の幸草氏(同31歳)に任されていた。 11年前に中道氏はまだ63歳とうかがったが、その風貌は実年齢をはるかに超えて見えた。孫を膝に抱く姿はいかにも好々爺。しかし、その若き日の夢、人生と経営の来し方、農業の何たるかを語る姿は“老い”も、その反対の“執着”をいささかも感じさせず、敢えて形容するなら“悠々たる大人(たいじん)”という人だった。
 若葉への移り変わりの鮮やかさ故にその名前を持つ“ゆずり葉”という名の樹木をご存知だろうか。それを教えられたのは先年亡くなられた滋賀県中主町の故・中道登喜造氏からだった。すでに経営は長男の唯幸氏(当時34歳)と次男の幸草氏(同31歳)に任されていた。

 11年前に中道氏はまだ63歳とうかがったが、その風貌は実年齢をはるかに超えて見えた。孫を膝に抱く姿はいかにも好々爺。しかし、その若き日の夢、人生と経営の来し方、農業の何たるかを語る姿は“老い”も、その反対の“執着”をいささかも感じさせず、敢えて形容するなら“悠々たる大人(たいじん)”という人だった。

 拓土の広がる大陸に沈む夕日を見つめる“開拓者”を夢見て、満蒙開拓団への参加を親に止められた少年時代。長じての後、夢を果たすべく大阪の門真市の農地を売り、滋賀県でやっと手に入れた農地は、面積こそ大きくても小区画で条件の悪い水田ばかり。それを自らの手で改良し、広げていった40haの農地。

 やがて、“土と経営”を語る農業の同伴者としてスガノ農機を知り、その紹介で北海道の地で大規模麦作経営にチャレンジする勝部徳太郎氏と出会う。離れた地にあっても勝部徳太郎氏・征矢氏親子こそを、後継者が範とすべき経営者として規交を深めた。その出会いから、昭和45年に同氏オリジナルの、耕幅218cm、14インチ溌土板で土を内盛りに畝成形していく丘牽きタイプのサンドライ・プラウを開発ずる。同時に80馬力のブルドーザを導入。それは中道氏の“土にこそ投資する”農業経営の理念を象徴する機会だった。

 自らの夢と理想に従い、その農業経営者としての人生を通じて「大規模を目指すなら深く耕せ」と語リ、土作りに向かう後ろ姿を子供たちに見せてきた登喜造氏。耕し、穫る以上に戻し続けることで守り育てた“土”。

 そして、二人の後継者はすでに壮年期を迎えている。現代の市場社会の中にいる彼等にとって“土”とは、すでに足元の土ばかりではない。それは足元の耕し統ける土であるとともに、顧客であり、取引先であリ、食べる者への責務を共有する異業種の人々をも意味しているのではないか。彼等は登喜造氏の時代には得られなかった新しい生産技術手段ばかりでなく、コンピュータや様々なマーケティングノウハウを道具として、彼等にとっての土作りを続け、さらなる未来を創造している。父がそうしたように、“土”に戻し続け、それを信じながら。

 登喜造氏が、その人生を掛けて後継者に伝え、残したものとは、その広い農地でも儲ける術でもない。金を追わず、楽を願わず、ひたすらに冬(種を播く前)にこそ働き、規模を望めばこそ深く耕し、そして開拓者の夢を持ち締ける経営者としての生き方や哲学、あるいはその誇りや勇気。そのように生きることの楽しみなのではないか。

 そして、登喜造氏は、冷静に、そして思い切りに生きて来た者だからこそ見える時代の変化を予感して、潔く次世代に未来を託し、自らの新たな役割を果たそうとしたのではないか。僕が見た好々爺然としたその風貌とは、まさに、成長する若葉に自ら場を譲る“ゆずり莱”を演じる姿だったのかもしれない。

 今月号では、大きな時代の変化を迎える中で、「未来作りのための“創造的”引退論」と題して特集してみた。 (昆吉則)

関連記事

powered by weblio