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特集

未来づくりのための“創造的”引退論

農村における経営移譲の“哲学” 大泉一貫



【継承すべき経営の「遺伝子」】

 経営の継承とは、「知」の継承のことだと私は思っている。継承の対象とすべき「知」とは経営の「遺伝子」のようなものである。それは、社風や企業文化、家訓などいろいろにいわれているが、経営に共有されたものの考え方や哲学、理念といった様なものと考えてよい。苦境への対応の仕方やチャンスへの対応の仕方など、内容は多岐にわたるが、通常はある種の創業ストーリーなども含めながら、企業に代々蓄積されてきたものである。かつては住友や三越など、江戸時代から続く企業にはこの手の教訓が数多く残っていた。企業はこの「遺伝子」継承のために、折りにふれ相互に語りあったり、様々な研修を行ったりしている。

 ただ、家族での継承となる場合には、引き継ぐ者と引き継がせる者の間に、親子関係に由来する様々な要因が入り込むため、「遺伝子」だけを継承するピュアな形での継承が困難となる。我が国でも、トヨタや松下電気、大正製薬やブリジストンなど様々な家族企業がトップの継承を巡ってその都度話題になっている。中にはダイエーの中内親子や、キミシマなど失敗といわれる事例も多い。

 ただヨーロッパやアジアの伝統ある家族企業には、その継承のノウハウを蓄積しているところが多い。たとえばロスチャイルド家やロックフェラー家、さらには香港財閥の李嘉誠一家などは、独自の帝王学を持って後継者を育てている。もっとも心配することは「後継候補の命」だという。実際彼らの後継者は誘拐や事故、自殺などによく遭っており、ロックフェラーの後継者が事故死したのは記憶に新しい。そのためあたかも江戸時代の大名のように後継候補を複数抱え、兄弟一族の相互競争、切磋琢磨によって鍛え上げるなど、継承についてのリスクヘッジも考えている。

 農業も基本的には家族間の継承を前提とした経営スタイルをとっている。しかし現実は家の継承に「経営」の継承が付随しない状況となっている。その理由は、継承すべき経営の「遺伝子」がないからだと私は思っている。背景には農家しか農業ができない我が国の農業の仕組みがある。それは、耕作者自らが所有するのを正当とするという農地法に起因しているが、このことによって経営の遺伝子をつくる基盤が狭矮になってしまい、広く社会を見渡した経営理念の創造を困難にしてしまっている。


【兼業化による「遺伝子」の喪失】

 かつての農業経済学の社会的使命の一つは、貧困の発生理由を研究しそれを解消することにあった。農政にも同様の命題が課せられていた。

 農地改革は、そうした一連の努力の成果であった。耕作者に所有権を与えることによって、我が国の農業生産力の飛躍的向上をはかり、同時に小作農などの階級を解消して貧困を解消しようとした。貧富格差の解消は、40年代後半から、70年代にかけての我が国農政の基本モチーフだった。現に61年農業基本法はその目標として「所得格差の解消」を唱っている。

 しかしながら、80年代には、農工間の所得格差も、兼業という「ウルトラC」によって解消する。我が国の農業問題の解決は、農業の振興ではなく、脱農化によって達成する皮肉な結果となった。この脱農化は、土建業や工場労働者へという工業化社会に対応したものであった。

 おそらくこの時点で農業の持つ意味も大きく変わったのだろう。それは貧困を解消するための道具から、大量生産・流通・消費という工業化社会のロジックになじんだものへという転換である。兼業化によって、多くは経営の「遺伝子」を失い、また大量生産の論理によって「農の心」や「自然の息吹」といった農業の持つ「遺伝子」を失い、継承すべき内実を失っていく。

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