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特集

未来づくりのための“創造的”引退論

ケーススタディ(2) 長野県・横森親子の場合/創業者と後継者は別。息子は自分で人脈を作っていくしかない 青山浩子


【大事なのは本人の気持ち】
「息子には継がせようとは思ってなかった」――横森さんの言葉を聞いて最初、驚いた。8haで高原野菜を作り、経営手腕をいかし自ら販売ルートも切り開いてきた横森さん。畑を訪れると、黙々と作業をする長男利明さんの姿が必ずあった。築いてきたものはそっくり利明さんに渡すと最初から決めていただろうと思っていただけに意外だった。

「家族が力を合わせて農業で生きることを教えるために、幼い頃から仕事は手伝わせました。私の祖父は、是が非でも私に継がせようと農業を手伝わせた。でも私にはそういう思いはなかった。大事なのは本人の気持ち。好きでなければ続かない。私は農業が好きだったから、祖父のいう通りにしてよかったと思っている。でも息子は別。本人が継ぎたければ継げばいいし、継ぎたくなければ他の人にやってもらおうと思っていた」

 そのため、横森さんは一度も利明さんに「継いでくれ」といわなかったという。「それに息子が継ぐとなると、引退した後も私の気が休まらないから」と笑う。

 ところが、農業大学校を卒業した利明さんは、「継ぎたい」と言ってきた。「でもこっちもすぐには頷かなかった。地元を離れれば気も変わるかと思い、米国の農業研修に行かせたが、戻ってくるとやっぱり『やる』という。ならば『嫁さんを先にもらえ』というと早速探してきた。夫婦でがんばれるかどうかを確認して、ようやく継がせることにした」。

 利明さんに農業を選んだ理由を聞いてみると「長男は家業を継ぐのが当たり前というしきたりが残っている地域ですが、結局は自分で選びました。親父がいろいろ仕事を紹介してくれましたが、自分で農業をするのがいちばん性に合っていると思いましたしね」と話してくれた。


【「還暦になったら引退する」と宣言。3年かけて経営を移譲】

 利明さんが23歳で就農して以来、親子は一緒に野菜を作ってきた。しかし2000年春、(株)信州がんこ村という法人を立ち上げると同時に、横森さんは経営の大半を利明さんに移譲した。

 (株)信州がんこ村とは長野、山梨、群馬の各県の生産者20数名からなる組織だ。炭と木酢による土壌改良材「ネッカリッチ」を共通資材として使い、できた農産物は「がんこ村」というブランドで、横森さんのもつ販売先を始め、全国のスーパーや市場に流されている。同社は、がんこ村商品の販売支援と生産指導などを行なっている。

「息子が継ぐといった時点で、還暦をもって実益のための農業から引退しようと思っていた。引退後は『趣味』としてか、これまでお世話になった人を手伝う『生きがい』としての農業がしたかったので、ずるずるやりたくなかった。だから60歳になる3年前に引退宣言をして徐々に譲っていきました。1年目は作付けの関係、次はお金の関係、そして最後は販売の関係とやらせるようにしていきました」(横森さん)

 ただ、横森さんは自分の経営スタイルをそのまま利明さんに継がせるつもりはないという。横森さんの農場では毎年、新規就農者や海外からの研修生を受け入れてきた。そのため「一つの家族が食べていくには広すぎる規模」という8haを耕してきた。今後はこれを減らしてもいいと横森さんはいう。「基本的に夫婦二人で食べていける規模からスタートしたほうがいい。増やしたいと思えば増やせばいいが、始めから大規模経営をしようと考えない方がいい」現在、横森さんは利明さんの「相談役」として農場の仕事もやっているが、それも後3年で終わりにするという。

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