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新・農業経営者ルポ

家庭菜園が発掘したブラジル野菜市場

人生の旅路の始まり

 林の出身地は宮崎県の高千穂。高校卒業後、名古屋の繊維問屋に勤めていた林は、1972年、25歳でブラジルにわたる。日系企業に技術指導者として雇われてのブラジル行きだった。日本では、営業先にもかわいがられ、縫製の技術も身につけていた。しかし、上司の顔色をうかがうような会社の雰囲気に嫌気が差し、なぜかブラジルへのあこがれがあった。そんな林にブラジルの日系企業で縫製の技術を指導する人材を求めているという情報が舞い込んだ。それも、当時の海外協力事業団から旅費も出してもらえるという条件だった。25歳の林はすぐにその話に乗った。当時は、まだドルが360円の固定相場の時代だ。

 これが、林のブラジル人社会との幸運な出会いであり、その後の人生を決定付ける旅路の始まりだった。林の話しぶりを見ていると、ブラジル、そしてブラジル人に深い共感と愛情を抱いていることがわかる。

 林は「こんな素晴らしい人々の住む国がほかにあるものだろうか」と思ったという。当時のブラジルは、人々の暮らしは貧しくとも、人々はどこでも誰でもが親切だった。そこはそれまでの人生では体験したことのないほど居心地の良い場所だった。ポルトガル、スペイン、イタリア、ドイツ、ポーランド、ユーゴスラビア等々、出自は違っても人種差別を感じることもなく、誰とも親しく付き合える場所だった。林の人柄のせいでもあったのだろう。

 現地社員への技術指導のために勤めた会社で語学学校に行かせてもらったが、技術指導をする職場で心を交わし合った人々との日常がポルトガル語の学校だった。その職場で妻・キミコとも出会った。日系3世で、話すだけなら日本語もできた。

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