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新・農業経営者ルポ

家庭菜園が発掘したブラジル野菜市場

 インフレを理由に事業を撤退したとは経営者として言いたくはないと林は言う。しかし、安定していた縫製工場の経営にも限界が見えた。文字通りお金だけを追いかけるような経営になっていた。林は20年間のブラジルでの暮らしに区切りをつけて日本に帰る決心をした。会社が行き詰まることだけでなく、あれほど愛したブラジルの混乱を見るのが忍びなかったのかもしれない。


喜ばれることがうれしかった

 工場も具合よく売却できた。日本 に帰ることを聞きつけた日系企業は、林に日本の工場での労務管理担当者として仕事をしてほしいと言ってきた。それらの企業は日本の工場に日系ブラジル人を労働者として採用するようになっていた。自動車、繊維、食品関係など。さまざまな企業からの招請があったが、これまでの仕事とはまったく畑のことなる食品メーカーを選んだ。

 そして92年、林は家族とともに群馬県大泉町に移り住んだ。会社の社宅に入りのんびりとしたサラリーマン生活だった。妻は治安がよく皆が豊かな日本の社会を喜んだ。その後、その食品メーカーは中国に拠点を移し、林は会社が借り上げていた社宅の大家さんからそのまま借りる形で現在の家に住んでいる。

 暮らしが落ち着いてくると、日系3世のキミコは故郷の野菜を懐かしがった。それを聞いて、林は借り上げ社宅の大家さんに相談して家庭菜園をする場所を貸してもらった。数坪の文字通りの家庭菜園だった。しかし、それが林の次の人生が始まるきっかけであった。

 妻のために始めた家庭菜園であるが、家だけでは食べきれず、会社に野菜を持っていった。すると、ブラジル人たちの皆が喜ぶ。毎週のように会社に野菜を持っていくと、労働者の間で林の野菜が話題になっていく。喜ばれるから野菜づくりに熱が入り、喜ばれるとまたうれしくなって、もっとつくろうと思う。

 大家さんから社宅の前の畑を借りて家庭菜園を25aまでに広げる。やがて会社に持っていくには量が多くなりすぎて、皆に家に取りに来てもらうようにした。最初は同僚だけだったものが、林の家に野菜をもらいに来る日系ブラジル人の数はますます増え、休みの日は林の畑がブラジル人の集会所のようになった。

 希望者が増えれば面積も増やさざるを得ず、有給休暇を目いっぱいに取って畑仕事をしても間に合わない量になっていた。それでもあくまで林の家庭菜園のおすそ分けであることに変わりなかった。

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