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限られた農地で最大の利益を
金川さんは、農家の生まれではあるけれど、根っからの百姓ではない。耕地は田んぼが45a。専業でやっていくのは難しいと考え、高校卒業後は電気関係の会社に就職した。
「いずれ定年退職して、年金もらいながら農業やろう」と思っていのだが、会社の命令で大阪への転勤を言い渡される。自宅から片道2時間。通勤できない距離ではないが、朝8時半に会社に着くには6時前に家を出て、帰るのは夜11時。まるで寝るためだけに帰ってくるような生活である。
実際にそういう生活を余儀なくされているサラリーマンはゴマンといるが、金川さんは、往復に4時間を要する通勤生活が延々と続くのは体もキツいし、“人生のムダ”と考えた。
当時まだ40代。予定より20年ほど早く会社を退き、本格的に農業を始めることを模索し始めた。
「この面積でやっていくには、米では無理だろう。ゆくゆくは施設栽培にせなあかん。限られた農地で最大の利益を上げるにはどうすればいいのか」
まずハウスを建て、土耕で野菜の栽培に着手。いずれ専業に移行する前段階としての兼業時代は4年間続いた。
小規模で効率よく。この課題をクリアする切り札として浮上してきたのが水耕栽培だった。80年代後半、好景気に後押しされ、プラントも農家が導入できる価格に落ち着いてきた時期でもあった。金川さんは、小規模な実験を繰り返す。トマトやキュウリなど果菜類もつくってみたが、最終的に面積当たりの収量がもっとも多いのは軟弱野菜と判断。91年、施設を整えて本格的に水耕でチンゲンサイの栽培をスタートした。設備費は?
「少しずつ増やしてきたから、正確なところはわからん。電気工事士の免許をもっとるから、電気関係と水道工事は自分でやった。反当2000万円ぐらい。今から始めたら回収不可能やね」
バブル期には、消費者の高級志向に後押しされて有利に販売できた水耕野菜も、その後有機栽培が脚光を浴び始めると、しだいにその優位性が薄れていく。金川さんは価格が低迷した水耕チンゲンサイに見切りをつけ、春菊の栽培を手がけるようになる。
チンゲンサイから春菊へ水耕は究極の有機栽培
金川さんは、小誌の連載の中で、自らが水耕栽培を選んだ理由を、3つあげている。「同一収量を得るのに3分の1以下の労力で済む」「収量面でも単位面積あたり軽く2倍はクリアできる」そして「安全面ではアブラナ科以外の作物はほぼ無農薬栽培が出来る」(2000年9月56号参照)。
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金川秀人 カナガワヒデト
琴秀園
昭和19年兵庫県の農家に生まれる、昭和37年に高校を卒業後、平成2年まで電気関係の会社に勤務。昭和62年より土耕ハウスでの軟弱野菜の栽培を兼業で始め、平成3年より水耕栽培を導入。現在に至る。
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