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農業経営者ルポ「この人この経営」

責任はわれにあり豆腐に込めた再起への思い

観光地として有名な尾瀬がある群馬県片品村。昭和30年代まで大豆栽培と養蚕が主な収入源だった。千明さんは大豆栽培の他に酪農を手がける家に生まれた。高校卒業後、父親宗助さんの後を継いだ。宗助さんから経営を任されるようになると、国の施策に従って大規模酪農を目指していった。ピーク時には飼育頭数が100頭近くになっていた。規模拡大に合わせ牛舎建設や作業機械には惜しみなく投資した。
絶望から這い上がって始めた豆腐作り


 しかし1991年の牛肉の輸入自由化で状況は一変。肉牛とともに乳価も下落、売り上げは作業機械などの借金で消えた。90年に宗助さんが他界したショックもあり、千明さんは何もやる気が起こらなくなった。病院に行くとうつ病と診断された。

 病院に通っても良くなる気配はなかった。「こういうときはとんでもないことを考える。牛舎に火をつけて火災保険で借金を返そうとかね。最後に考えたのは、自分の命と引換えに借金をなくすことだった。自分が死んだらいくら保険金が入るかまで計算した」

 だが、悲しむ家族、火に包まれて苦しむ牛のことを考えると実行には移せなかった。

 1994年、とりあえず酪農は廃業した。残った借金は親戚からお金を借りて返済した。それでもやりたいことが見つからない。酒におぼれる日々が続いた。

 思いあぐねていたとき、千明さんの口から意外な言葉が出た。「豆腐屋にでもなろうか」。幼い頃、地元に一軒の豆腐屋があって、小さいながらもスキー客などが訪れて繁盛していたことを思い出した。

 酪農一本でやってきた千明さんにとって豆腐作りは未知の世界だ。とりあえず、豆腐を作る機械を中古で購入した先で2日間の講習を受けた。「輸入大豆を使えば儲かるよ」。言われたとおりにやろうと店を開けた。酪農をやめた翌年だ。

 商品は、地元の人が好む木綿豆腐の一品だけ。できた豆腐を軽トラックに乗せて千明さんは、村内にある約800戸の家を一軒一軒回った。「豆腐屋を始めました。よろしくお願いします」。差し出した豆腐は形が崩れ、固さも日によってまちまちだった。それでも地元の人は買ってくれた。「村の人は情が深いんさね。2日間の研修で立派な豆腐ができるわけがないのに」。

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