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農業経営者ルポ「この人この経営」

酪農経営の可能性を独力で拡げた農業界の“落第生”

乳牛2頭、羊2頭からの出発


 この牧場が今の経営形態に至るまでには長い歴史がある。ただし、開拓当初から、酪農を経済効率のみで考えず、しかも原乳による収入だけに固執しなかった点では一貫している。この牧場がテーマとして掲げているのは「自然と人間のハーモニー」だ。

 実は、この牧場を計画したのは川口さんではない。第二次大戦中、川口家の長男の源九郎氏が、自然のなかで子供たちの教育の場にもなるような牧場を作りたいと夢を描いたのが発端だ。源九郎氏の死後、その夢を引き継いだ三男の軍三郎氏が、1957年、当時は「陸の孤島のような、しかし眺めのよい広大な野原」(川口さん)だった今の牧場地に、教職で生計を立てながら、掘立て小屋を建てて開拓を始めた。

 ところが、3年後には、その軍三郎氏も死去。五男の川口さんにその役割が回ってきた。川口さんは東京生まれの東京育ち。父の生家は、牧場のある下田町に隣接する百石町だったが、川口さんが生まれた時、両親は故郷と東京を往復して暮らしていた。もちろん、農業は素人である。

 世の中が高度経済成長に沸き始めた1960年、青森からも離農者が続々と東京にやってくる時代に、大学を卒業したばかりの川口さんは、農業を始めるために東京から青森に向かった。農場に着いたとき、そこには、牛が2頭、羊が2頭いただけだった。

「野球でいえば、最終回ツーアウトでバッターボックスに立ったような状況でした。もうやめろと親も反対した。それを押し切って始めたんです。死んだ兄ふたりの弔い合戦ですね。それで意地になった。その意地がなかったら、途中でやめていたと思います」
と川口さんは振り返る。

 その後、掘立て小屋のランプ生活は約8年間も続いた。大学まで出て青森にやってきた東京出身の若者を、地元の人々は「どこかおかしいのではないか」と噂した。原野で一人暮らしの川口さんの耳までは心ない噂は届かなかったそうだが、それでも、事業の見通しが立たず、炉端の灰の上に牧場の設計を描いては消し、夢を思い描くことで辛さに耐えたという。

「あの頃はすべてが手作業で、しかも道路もなかった。乳を手で絞って、牛乳缶を背中に背負って、少し牛の数が増えてからは前にも背負って、沢の田んぼを越えて線路に上がり駅前の店に下す。帰ってくると、夜が白々と明ける。そんな日々でした」(川口さん)

 風向きが変わったのは68年。牧場の側に道路が開通して展望が開けた。空き家になっていた百石町の家屋敷から籾蔵や土蔵など使える施設を牧場に移築し、土地を処分して得た資金を牧場運営につぎ込んだ。そして、かねてから計画していた自宅兼ユースホステルを開設した。

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