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農業経営者ルポ「この人この経営」

酪農経営の可能性を独力で拡げた農業界の“落第生”

「1年間に50人もお客さんが来ればいいほうだと言われたんですが、その頃はユースブームで、一番多いときは、年間4000人くらい来ましたね。新鮮な牛乳と野菜がおなかいっぱい食べられる。環境がいいというのが人気の理由だったと思います」(川口さん)
 ユースホステルと酪農事業の2本柱ができたわけだが、酪農業でも、原乳出荷だけに収入を頼ろうとはしなかった。バケットミルカー(搾乳器)の販売会社を始めたり、飼料会社の社長として、当時は未利用資源で安かったフスマや大豆の皮を加熱してα化し、飼料にするシステムの販売もしてみたりと農業資材まで含めトータルに見た酪農業を展開した。


牛肉自由化以降、減頭路線へ


 乳牛の飼養頭数も順調に増え、70年代後半のピーク時には80頭に達した。さらに78年、牧場のど真ん中に、スイス風のレストランをオープンさせた。このレストランはやすらぎを求める都市住民の人気を集め、8年後には新館を増築。現在の経営の3本柱が確立する。

 しかし、酪農経営だけをとってみれば、80年代から局面は厳しくなっていく。乳価の低迷、生産調整の増加、さらに91年の牛肉・オレンジ自由化。生き残りをかけて規模拡大する酪農家が目立つなか、川口さんは逆に、自由化を契機に頭数を減らし、レストラン業に本腰を入れていく。

「私の経営が下手だったということにもなるのでしょうが、雇用労働では人件費と飼料代を出すと採算が合わなかった」と川口さんは話すが、そこには自由化以後の酪農界を見極めた判断があった。

「ニュージーランドでファームステイして、向こうの農家のやり方を見て来ましたが、とてもじゃないけれど太刀打ちできません。広大な敷地で、買いエサは一切与えないで乳を搾る。搾乳施設と冷蔵タンク、あとはトラクタ関係くらいしか設備はない。だから、非常にコストが安い。100頭、200頭の搾乳作業を一人で1時間半くらいですませられるから労働時間も短い」
 飼料も輸入に頼り、機械設備にカネがかかる日本では、半端な規模拡大をしても、自由化がさらに進んだとき、価格では勝ち目がない。では、日本の酪農が生き残るための武器はなにか。

「やはり鮮度だと思うんです。単価で競争しても海外にかなうわけがない。できるだけ直接、消費者に牛乳を飲んでもらったり、加工品を食べてもらったり、おみやげに買ってもらう。生産と消費を直接結びつけたいんです」(川口さん)

 レストランと宿泊施設は、そのための装置になる。今でこそ、農家民宿やグリーンツーリズムがもてはやされているが、川口さんはすでに20年前に、牧場が持っている観光や“癒し”としての資源価値に注目していたのである。

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