ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

特集

経営責任を問わない“集落営農”の愚

 近年、なぜか集落営農が多く語られるようになった。インターネットでも、集落営農に期待を込めて解説するサイトが、地方自治体を中心に増えている。“集落営農”をキーワードに検索すると、数千に及ぶサイトが現れ、その多くが肯定的なものになっている。 集落営農という言葉が全国的に語られ出したのは、1950年代。戦後の「農地解放」後のことだそうだ。小規模の水田を所有する個々の農家が、田植えなど人手を必要とする作業を共同で進めることを指していた。それが70年代に入ると機械・施設の共同利用を目的とした言葉となり、80年代では土地集積など集団的土地利用を目的とした言葉となった。現在は、兼業化や高齢化による担い手不足、耕作放棄地への対応策として語られることが多いようだ。 その目的は時代と共に変われど、「みんなでやろう!」という合い言葉と補助金は、常に集落営農と共にあったと言ってよいだろう。 昨夏公表された農業構造動態調査によると、全国の集落営農数は9,961で、うち「水稲・陸稲」が7,002と大半を占めている。集落営農と言っても、「団地化等の土地利用調整」や農業機械の「共同利用」「共同所有」がそのほとんどを占めており、経営責任をとることのできる経営主体が明確となった“集落営農”は実に微々たる数となっているのが現状だ。 結局、“集落営農”の美名の下に、経営責任が誰も問われないまま、何十年にも渡って補助金がつぎ込まれたことになる。 しかし、今般決定された「米政策改革大綱」の“担い手経営安定政策”では、定義の曖昧な集落営農のうち、「20ha以上の水田経営規模」「生産資材の購入から農産物の販売まで一元的に実施」「一定期間内に法人化」などの制限を設けて所得安定対策の加入条件としている。 この不況と税不足の中で、“集落”や“共同”と名が付けば補助金対象となる農業界の常識は、国民の納得が得られないものとなっている。そしてそれより大事なことは、無登録農薬の問題も含めて、国民は“責任をとろうとしない”農業の体質に不信を感じていることなのではないだろうか。 当たり前のことだが、その営農体が“集落”“法人””個人”を問わず、公務員や準公務員は“営農”の結果に対して責任は取らない、というより取れない。唯一、最終責任が取れるのはその経営体の経営者だけだ。本誌の言う「農業経営者」とはそういった存在であるし、国民の信頼もいずれそういった経営者たちに向かっていくはずだ。 “集落”ではなく“経営者”が先にあるのだ。そこに核となる経営者の存在があってはじめて、営農体としての“集落”が存続し得るのではないのか。
座談会“集落営農”で日本農業は守れない!
【出席者】本間正義(東京大学大学院教授)青山浩子(農業ジャーナリスト)昆吉則(「農業経営者」編集長



昆吉則(「農業経営者」編集長)“集落営農”という考え方は、農業や農協あるいは自治体関係者にとって農業を考えるうえでの前提になってきました。それはもうイデオロギーというべきものです。それは非常に耳障りがよく人々の心に馴染みやすい集落意識とも結び付いてきたのではないでしょうか。とりわけ、戦後の社会科学者や多くの歴史家たちが日本の共同体理論を語ってきましたが、そこで語られてきた社会主義的イデオロギーにも影響を受けながら集落営農という考え方が農村や農業界を支配してきたのではないかと私は思っています。
 ところでインターネットのヤフーで「集落営農」という単語を検索すると、約5600件もヒットします。それのほとんどが地方自治体やその関係から発信されているものです。そこでは、「こうすれば集落営農が成功する」という具合の絵に画いた餅が描かれている。さらに、補助金という撒き餌までがセットになっています。

 新しい農業基本法が施行され、市場の要求や世界の農業との競争が否応なく迫られている環境のなかに日本農業があることを考えれば、むしろ我々は“集落営農”という考え方そのものを根本的に批判してみる必要があるのではないかと思うのです。そうでなければ、この集落営農についての議論の花盛りは、農業政策というより役人、普及員、農協の居場所づくりではないかと詮索してみたくもなるのです。むしろ、それはソビエトや中国で明確に破綻したコルホーズや人民公社のイデオロギーの時代錯誤な焼き直しではないのかと。

関連記事

powered by weblio