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江刺の稲

WTO交渉論議で語られる敗北主義に取り込まれるな

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第86回 2003年04月01日

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「身土不二」あるいは「地産地消」が農業界の流行語になっている。「身土不二」は人の命は“風土”とともにあるという考え方だ。それは現代の農業や食のあり方に警鐘を鳴らす言葉として秀逸だと思う。しかし、今という時代に、農業界や農業者が自分の存在証明を見つけたかのようにそれを語ることについて、僕はいささかの違和感を持っている。
「身土不二」あるいは「地産地消」が農業界の流行語になっている。「身土不二」は人の命は“風土”とともにあるという考え方だ。それは現代の農業や食のあり方に警鐘を鳴らす言葉として秀逸だと思う。しかし、今という時代に、農業界や農業者が自分の存在証明を見つけたかのようにそれを語ることについて、僕はいささかの違和感を持っている。
 そもそも、風土は農業とイコールではなく、人はその土地でできたものだけでなく調達可能なものを食べていたと考える方が自然だ。また、「地産地消」とセットになってスローフードだナンダというが、かつての日本の食生活がいかにも豊かであったかのように語るのは“嘘”である。多くの日本人が現在のような多様な食事をするようになったのは、ここ30~40年のことに過ぎない。ある年齢以上の人々であれば同じ食材だけの“ばっかり食”からの開放や、“一日一回フライパン運動”なんてものが生活改良普及員や保健婦さんの一番の仕事だったことを覚えているはずだ。

 同じく、WTOの農業交渉を邪魔するわけではないが、“農業と農村の持つ公益的機能”という主張も、そのような側面もあるとはいえ、むしろ殊更にそんなことをいうだけの実態が日本の農業や農家にあるのだろうかという疑問もある。

 農業経営者たちはそんな存在理由で自らを慰めるべきではない。経営の可能性は多様であるが、あくまで農産物供給者として市場に必要とされることを第一義と考えるべきなのだ。すでに10年前のウルグアイラウンドで決まっていた現在の事態に対して、どのような農業構造や経営の改革に取り組み、それへの備えを進めてきたというのか。

 その問いが先なのである。お客さんを喜ばす手立てとしてならともかく、自画自賛や消費者(お客様)に向けたことさらの自己宣伝で自らを甘やかす者が農業経営者なら、日本農業は滅びるだろう。むしろ、保護と安逸の中で重度の成人病患者となってしまった日本の農業や農家にとって、それは“安楽死”のための麻薬に過ぎないと自覚すべきだ。

 農業界の敗北主義がそれを語らせているのである。なぜ、そんなに日本農業や農業者の力を過小評価するのだ。どうして自分たちの可能性を信じることができないのだ。

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