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江刺の稲

素のままの人間が考えた本来のあたりまえさとは何?

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第88回 2003年06月01日

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我が社のスタッフや若い仲間たちにこんな説教をすることがある。
 我が社のスタッフや若い仲間たちにこんな説教をすることがある。

「いいか、頭で考えるなよ、頭で。自分の口と胃袋とケツの穴、それにチンポコと手足の皮膚や筋肉で考える、あるいは深くテツガクしてみるんだよ。汗だ汗。痛みだ、涙だ、よろこびだ。」
 まことに品がないし、ほとんど宗教の世界。そして、こう続ける。

 俺たち凡人が“頭で考えた”と思っていることのほとんどは、実は自分の頭で考えたことじゃないよな。ほとんどは世間や誰かの話を受け売りしているだけ。だから、“何故?”と問われると、その理屈ごと受け売りするか、言葉に詰まってしまう。なかには“昔からそうだった”、あるいは “皆がそう言っている”などと、他人や世間の尻馬にしか乗ることしかできぬ無責任な暢気者もいる。でも、“昔”とは“何時”?“皆”とは“誰”?

 農業の話にしよう。転作が始まってもう30年。ひと昔どころか30年も前。若い人にとってはオヤジどころかジーちゃん、バーちゃんの時代からそれがトーゼンになっていた。最初は切実な生活保障やチャレンジへの支援だったかもしれないが、今、転作に伴う“収入”の意味は農家にとってどこにあるのか。

 被害者意識は止めにしよう。そのツケは払わさせられるのだ。誰かが何とかしてくれるだろうなんて思っているかもしれないが、これからはそうはいかない。それぞれが始末をつけなきゃいけない。むしろ、今の我々がふんぞり返っている安楽椅子というものは、たまたま今の日本人に与えられている幸運に過ぎないのだ。

 ヒージーちゃんやヒーバーちゃんより前の日本人が今の時代を生きていたとしたら、こんな都合のよい世界や便利な技術や科学知識や情報手段や法や制度が存在し、しかもこんなふんだんな浪費までできてしまう時代に生きていたとしたら、どう振舞ったかだろうか。まずは、“アリガタヤ、アリガタヤ…”と彼らの体が語り出しただろう。でも、それに溺れるだろうか。人が生き延びるための生れながらの欲と智恵を失っていない“素のままの人間”であったとしたら、そしてアリガタヤと声が出てしまうほどの生き物としての“存在の畏れ”とでもいうものを知っていた彼らは、現代の我々とは違う振る舞いをしていたのではないだろうか。

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