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農業経営者ルポ「この人この経営」

石礫と重粘土との闘いの中で掴んだ経営哲学

浅間山を望むレタス畑の脇に、赤茶けた石が無数に積み上げられていた。通路の地下には深さ1.5mの溝が延々と掘られ、そこにも大量の石が埋めてあるのだと言う。  
 土を撫でながら、小松博文さんは言った。

 「この辺りの畑は石が多くてね。作土をなんとか深くしようとプラウをかけたらゴロゴロ出てきちゃって、どうしようかと思った」

 決して誇張ではなく、17年前、初めてプラウを使い始めた頃は、畑一面に大きな石が露出し、まるで川原のような光景が広がっていた。ストーンピッカを入手するまでの間、小松さん一家はこれらの石を1つずつ人力で運び出してきたのだ。

 小松さんの農業人生は、土との格闘の歴史だ。キャベツ、ハクサイの栽培に取り組み始めると、すぐに干害や湿害に直面。生理障害にもさんざん悩まされた。物理性の改善を願っての深耕、除礫は闘いの第一歩であり、本人曰く「苦労の始まり」でもあった。以来、いくつかの試行錯誤を繰り返し、理想だけでは経営が成り立たないことも知った。その上で、土への思いと経済性とが矛盾しない、持続型の経営をひたむきに目指す。


作土60cmの夢

 長野県北佐久郡望月町。町の南東、蓼科山の北面傾斜地に位置する長者原地区は、冷涼な気候から、キャベツ、ハクサイの産地として知られる。特にキャベツは良質とされ、中京・京阪神の市場で高い評価を受けてきた。

 小松さんは同地区で農業を営む8代目だ。半径4km四方に11ヶ所(計9.5ha)の畑を所有し、それらは標高800~1,000mの間に点在している。現在は、輪作として始めたレタスを主力に、同地区では珍しい有機肥料にこだわった栽培にも力を入れている。

 就農したのは23歳の時。後継ぎという以外、取り立てて言うほどの動機はなかったが、「どうせ将来、親の面倒を見ることになるのなら、定年帰農するよりも、初めから農業をやった方がいい」と考えて、千葉大学の園芸学部を卒業した。

 小松さんの父、昭三さんは昭和40年代に、それまでのコメ、養蚕からダイコン栽培へと大胆に転換した。この地での露地野菜の先駆者である。農協に先んじて首都圏への出荷ルートを開拓するなど、営業面での才覚も発揮し、一時はパートを約20人雇って大規模な経営を行っていた。

「親父と同じことをやったのでは芸がない」。大学を出たばかりの小松さんは、周辺農家で主流になりつつあったキャベツ、ハクサイの栽培に飛び付いた。

 「ところが親父とは品目が違うから、栽培技術を受け継ぐことはできないし、机上の知識はさっぱり役に立たない。周りの農家に色々教わりながらやってはみたけど、収量も等級も低く、お金がとれなかった」

 ただでさえ素人同然なのに、この地域特有の悪条件が重なった。畑の作土が浅いため、照れば干害、降れば湿害が発生し、しかもその両方が毎年必ずと言っていいほど起きた。病害も頻発し、収穫期を前に野菜がバタバタと倒れていく。

 「辛かったですよ。これじゃ食っていけないやと思った」
 農業を始めて5年後、小松さんは大学時代の同級生だった真知子さんと結婚する。真知子さんは卒業後、中国農業試験場(広島県福山市)で研究活動をしていたが、農業の現場に入りたいと決意しての嫁入りだった。

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