ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

旅の曲者

少年は笑わなかった

笑いがコミュニケーションの糸口をつくってくれることが、よくある。 市場で買いたいものがあるのに言葉が通じない。そんなとき、欲しい物を指さしてにっこりすると、むこうもまた口元をかすかに歪めて微笑む。それだけのことなのに、そこにはなにか目に見えない流れが確実に通い合うのを感じる。 
 そんなふうにして、厄介な役人や頑固な入国管理官をクリアしてきた。むろん、ただ愛想笑いするだけでは、不真面目だと見られることもある。とくにロシアなどの北国では下手な笑いは誤解を招きかねない。けれども、経験的に南に下るほど、笑いに対して人びとは肯定的になるような気がする。

 「星の王子さま」で知られるフランスの作家サン=テグジュペリの作品が好きなのだが、理由のひとつは、彼の作品における微笑みの描き方に惹かれるからだ。サン=テグジュペリ自身は繊細だが頑固な性格で、雰囲気に応じて作り物の笑いを浮かべるような真似のできない人物だった。なぜなら、彼にとって笑いとは、自分の心のいちばん深いところにあるものを、相手にそっと打ち明ける大切な行為であったからだ。だから、彼の描く笑いには、どこか淋しい孤独の影がさす。

 『人間の土地』という作品の中で、彼は、夜中に出撃命令で起こされた軍曹が浮かべた微笑みの記憶を綴っている。生還の見込みのない出撃だったにもかかわらず、軍曹は「時間ですか?」といって、にっこり微笑むのだ。

 また、スペイン取材中、アナーキストの民兵に捕らえられたサン=テグジュペリ自身の体験が語られた「ある人質への手紙」にも、希有な微笑みの場面が描かれている。カタロニア語しか解さない民兵に監禁された彼が、処刑の恐怖にかられていたとき、そばにいた監視人が煙草を吸っていた。サン=テグジュペリは、手真似で一本くれないかと頼む。そのとき一言も口をきかなかった監視人がほんのかすかに微笑む。

 「安物の石油ランプも、書類の散らばったテーブルも、壁にもたれた兵士たちも……なにもかも前のままだった。だが、どれをとってもその実質そのものが変わっていた。あのほほえみがぼくを解放してくれたのだ」と彼は書く。

関連記事

powered by weblio