ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

新・農業経営者ルポ

息子が受け継いだのは困難に挑戦した親の誇り

 白いご飯を食べるのはお正月くらいという暮らしだった。開拓部落に車が通える道路が通じたのは56年、電気が通じたのも東京オリンピックの3年前の61年である。

 両親は60年までに1haを手作業で開墾した。その目標達成を条件に、国の融資でさらに2haを取得。こうして家子家は開拓地に3haの農地を持った。

 雑穀作りから始まった開拓地での農業は、1頭の素牛から酪農へと変わった。しかし父は、61年秋に過労からで喘息、肺浸潤を発症し、その後は入退院を繰り返した。母も過労から数カ月間寝たきりの暮らしになることもあった。そんな時代を経て、家子家は75年に自作地6ha、小作3haの耕作をするようになり、同時に畑地の水田整備が行なわれ稲作専業に変わっていた。


憲昭の人生

 憲昭は、そんな暮らしの中で屈折した少年時代を過していた。父との関係も良いものとはいえなかった。農業を継ぐ気もなく、土木科の高校に進学するが、中退し土木会社に努めた。仕事は面白く、その後の経営者としての勉強の場でもあった。

 憲昭はムラでの暮らし父との葛藤などから生き方に悩んでいた。やがてノイローゼになり精神科に通うようになった。不良と呼ばれた時期もあった。しかし、そこで出会った医師が憲昭に転機を与えた。医師は自宅に憲昭を呼び、話をしてくれた。そして、米国の文化人類学者ルース・ベネディクトが書いた日本人論「菊と刀」を読むことを勧めた。理性的なものの見方、考え方、自分をそして日本の社会や人々の姿を考える方法論を伝えようとしたのだろう。そして親やムラ人の言葉にとらわれている憲昭にこう話した。「君自身の価値観が正しいかどうかではない。君自身の生き方で答えを出すしかないのだ」

 父の子供、開拓民の子供として産み落とされた憲昭を、人生を自らの意思で生きる存在に生まれ直すヒントを与えてくれたのだ。その医師との出会いは、後日に食管制度の中に甘んじて生きる農民や農業の世界を突き放して見つめ、確信を持って自らの人生と経営を切り拓いた憲昭の生き様を決定付けるものだった。それをきっかけにして、土木会社に通いながら岩手大学にもぐり学生として熱心に3年通った。

 一方、土木会社では現場責任者になり看護士の妻トヨと結婚、秀都が生まれた。二人の収入は十分だったが、憲昭は現場監督として飯場に住み込み、妻も夜勤のある仕事だった。子供が生まれ、自らの過去を振り返ればこそ、暮らしの子供への影響を考えるようになり、憲昭は農業を一生に仕事として選ぶことになる。

関連記事

powered by weblio