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新・農業経営者ルポ

息子が受け継いだのは困難に挑戦した親の誇り

 73年に稲作専業農家としての人生が始まった。憲昭は27歳。父は口を出さない条件をつけてのことだった。水田面積は2・8ha。当時はそれだけでも十分に暮らしは成り立った。でも、それでは暮らすだけだ。憲昭は借地で規模の拡大を目指した。

 借地を頼んでも農民の土地に対する執着心は強く、地主の次男だった父への反発もあって規模拡大は簡単ではなかった。しかし、すでに農家も安定した兼業先を持つようになり、減反も始まっていた。それに加え新規開田された田は重粘土で排水が悪い。農家の多くは水田を持て余し、鴨が遊び潅木を生やすような場所も増えていた。ある時、憲昭はそんな排水不良の田を5年の約束で借りた。土木会社で得た技術、岩手大学で学んだ水田の乾田化工法をその田で実証して見せた。3年もすると田は短靴で仕事が出来るほどに乾田化された。酪農時代から溜まっていた堆肥を田に戻した。

 そんな憲昭に貸した水田を見た地権者は、5年の約束を3作で返してくれと言ってきた。その話を聞いた父は歯軋りをして怒ったが、憲昭は二つ返事で返却に応じた。地権者が返さないと思っていた水田を憲昭は返したのだ。その地権者が「あいつに貸すとこういう風に乾田化される」と宣伝してくれた。憲昭の読み通りだった。それで借地が容易になり、80年には20haの規模に拡大していた。岩手でも最大規模だった。

 水田農業を本格化させた憲昭は大学や試験研究機関に足繁く通う。そこにほとんど使われぬまま放置されている機械類があり、それらを払い下げてもらったりしながら機械化のレベルも上げていった。土木会社時代以来の機械の整備技術が役立った。

 しかし、そんな憲昭は、80年の大冷害を通して職業としての農業、事業者としての己の地位に疑問を抱くようになる。食管制度の存在である。

 岩手の山間部にある憲昭の田も平均で3俵という壊滅的打撃を受けた。これだけの大冷害で市場は混乱するはずなのにコメの生産者価格は変わらない。それどころか農協からは供出を強制される。そんな事態になっても市場の原理が働かないコメの食糧管理制度に疑問を抱いた。正しく評価もされず、国家の下請けのようなことをさせられる百姓のプライドとは何なのだと思い始めた。

 果たして自分に与えられたマーケットというものはないのだろうか?岩手には闇米業者もいなかった。顧客がいないのならば、自分で道を切り開く以外にないと思った。

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