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新・農業経営者ルポ

息子が受け継いだのは困難に挑戦した親の誇り

 農業経営改革に意欲的な稲作経営者たちも憲昭に距離を置くようになり、憲昭は孤立無縁であった。2~3年で売り上げと信用は回復したが、次の落とし穴が待っていた。

 営業を社員に任せていた時期だった。それも経営者である憲昭の責任といえるが、前金扱いで取引をしていた先が4回目からの取引で掛売りにした。売り掛けが1500万円位まで溜まったところで取引先が会社を倒産させてしまった。取り込み詐欺だった。さらに、苦戦を続けてきた憲昭にとどめを打ったのが、ライズみちのく販売(株)の設立だった。

 発端は広島の米穀店からの働きかけだった。小さな生協グループの紹介で憲昭を訪ねて来た。そのコメ業者は珍しい米を産地直送で売りたいという。大阪から西の硬質米地帯に販路を広げるという意味で、憲昭は彼との協力が有効だと考え、共同で販売会社を作る話になった。しかし、家子は企業の法律に疎かった。出資割合は家子が30パーセント、残りを広島の米屋さんが持つ、代表取締役は憲昭がなるという話に何の疑問も無く乗った。資金的に大変な時期だったので、資本金1000万円の株式会社で家子の出資は300万円で済むという話は助かると考えた。

 社名は旧社名に「販売」の文字を加えた。顧客のすべてを新会社に渡し、生産法人としたライズみちのく(有)の米を新会社で売ることにした。ところが、新会社設立から程なく、憲昭不在の役員会と株主総会が開かれ、憲昭は代表取締役を解任された。さらに、顧客の全てを受け継いだ新会社は、家子の米を買わず岩手経済連から江刺の米を仕入れる戦略に出た。家子潰しである。農協・経済連は大喜びであったろう。すでにシナリオは出来ていたのかもしれない。

 憲昭の完全な負けである。情においては憲昭を気の毒だと思う。しかし、新会社の持ち株比率が3割しかない以上、新会社の経営戦略変更に憲昭の決定権はない。ライズみちのくの経営は窮していた。新会社の経営者が企業の生き残りのために新しい方針を出すことも、やむを得なかったのかもしれない。

 憲昭は従業員を集め、社員のそれまでの協力をねぎらうとともに、給料とともにわずかの退職金を出した。こうして憲昭が食管法に、そしてその中に安住する農民という存在を脱するために始めた米事業は挫折する。97年の暮れのことだった。旧会社の債権債務は全て相手に引き継がせるということで和解が成立した。もう憲昭には再び立ち上がる勇気が失せていた。

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