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【農業経営者ルポ「この人この経営」】
起業家は“異端”を恐れない
- (有)藤岡農産 社長 藤岡茂憲
- 第53回 2003年11月01日
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秋田県北秋田郡合川町。取材に訪れた時、藤岡茂憲さんの水田は稲刈りを間近に控えていた。9月中旬現在、同県の作況指数は96。太平洋側ほど悪くはないにしても、反収は例年より1俵ほど低く、8~8俵半に下がるのを覚悟しなくてはならない。しかし曇天を笑い飛ばすように藤岡さんは続けた。
「お天道様の下で仕事をしていますからね。冷害は避けて通れない。むしろ10年に1回ぐらいは冷害があった方が刺激になっていいんですよ。リスクがあるから面白いんで、バクチ性や意外性がなかったら、私とっくに農業をやめてます」
こんな発言をしていると、周囲からは「変わり者」と呼ばれるらしい。藤岡さん自身、そう扱われていることをどこかで楽しんでいる風だが、無理に余裕を見せたり、捨て鉢になっているわけではない。
1997年に法人化した(有)藤岡農産の作付面積は26ha。6人の社員を抱え、アイガモ農法や低農薬などで生産したあきたこまちを、「あいかわこまち」の自社ブランドで全量直販する。全国に約1,800人の顧客を抱え、昨年の売り上げは約9,000万円に上る。藤岡さんが、本人も認める通り「変わり者」だとしても、それだけでこの経営を実現できるだろうか。
合川町は、米代川の支流である阿仁川と小阿仁川の合流地点に位置し、古くからのコメどころとして知られる。藤岡さんはこの地で、コメ農家の長男として生まれた。けれども、若い頃は跡を継ぐ気など毛頭なかった。
「農家は忙しい時期になると、朝から晩まで仕事して暇がないでしょ。それにムラ社会特有の閉鎖性と閉塞感がいやでした。いつも周囲の目を気にして暮らすのが、どうしても性に合わなかった」
中学生になると、長い休みの度にヒッチハイクの旅に出た。高校時代は山岳部に籍を置き、家にはますます寄り付かなくなった。
高校卒業の年。山岳雑誌で長野県・上高地の山小屋がスタッフを募集しているのを見つけると、藤岡青年はさっさと就職を決め、卒業式の翌日には合川を去った。本格的に山を極めたいと思ったからで、山小屋で働きながら、シーズンオフの冬場になれば、穂高の岩場を攀じる日々が続いた。
一時は本気で登山家を目指し、ヒマラヤ遠征の隊員に選ばれたこともある。その時は、100万円の参加費が払えずに機会を逃したが、そのまま本格的にクライミングを続けていたら、「どこかの山で死んでいたかもしれない」と言う。
3年後、今度は下界を見てみようと思い立ち、全国放浪の旅に出る。ある農機メーカーと交渉して、小型耕うん機をタダで手に入れると、後部にトレーラを付け、寝泊りできるように幌を被せた。側面には「狭い日本そんなに急いでどこへゆく」という有名な交通標語を大書し、文字通り平均時速10kmで九州から北海道までを回った。
1年半にも及ぶ長い旅で、藤岡さんを農業に目覚めさせたのは北海道・利尻島に滞在した時だった。島で、肉牛の生産組合と出会い、半年間アルバイトしたことが、藤岡さんの農業観を大きく変えた。
「みんな開拓民の2世、3世ばかりだったから、発想が自由で物事に挑戦する意気込みが感じられた。ああいう空気は秋田にはなかったし、今でもないですよ」
こういう農業なら自分にもやれると思い、藤岡さんはようやく実家に帰ることを決意する。約5年間、盆正月にも戻らず、ほぼ音信不通だった息子が耕うん機に引かれて帰宅したのを見て、両親は仰天した。
「お天道様の下で仕事をしていますからね。冷害は避けて通れない。むしろ10年に1回ぐらいは冷害があった方が刺激になっていいんですよ。リスクがあるから面白いんで、バクチ性や意外性がなかったら、私とっくに農業をやめてます」
こんな発言をしていると、周囲からは「変わり者」と呼ばれるらしい。藤岡さん自身、そう扱われていることをどこかで楽しんでいる風だが、無理に余裕を見せたり、捨て鉢になっているわけではない。
1997年に法人化した(有)藤岡農産の作付面積は26ha。6人の社員を抱え、アイガモ農法や低農薬などで生産したあきたこまちを、「あいかわこまち」の自社ブランドで全量直販する。全国に約1,800人の顧客を抱え、昨年の売り上げは約9,000万円に上る。藤岡さんが、本人も認める通り「変わり者」だとしても、それだけでこの経営を実現できるだろうか。
村を去り、山と放浪に明け暮れた青春
合川町は、米代川の支流である阿仁川と小阿仁川の合流地点に位置し、古くからのコメどころとして知られる。藤岡さんはこの地で、コメ農家の長男として生まれた。けれども、若い頃は跡を継ぐ気など毛頭なかった。
「農家は忙しい時期になると、朝から晩まで仕事して暇がないでしょ。それにムラ社会特有の閉鎖性と閉塞感がいやでした。いつも周囲の目を気にして暮らすのが、どうしても性に合わなかった」
中学生になると、長い休みの度にヒッチハイクの旅に出た。高校時代は山岳部に籍を置き、家にはますます寄り付かなくなった。
高校卒業の年。山岳雑誌で長野県・上高地の山小屋がスタッフを募集しているのを見つけると、藤岡青年はさっさと就職を決め、卒業式の翌日には合川を去った。本格的に山を極めたいと思ったからで、山小屋で働きながら、シーズンオフの冬場になれば、穂高の岩場を攀じる日々が続いた。
一時は本気で登山家を目指し、ヒマラヤ遠征の隊員に選ばれたこともある。その時は、100万円の参加費が払えずに機会を逃したが、そのまま本格的にクライミングを続けていたら、「どこかの山で死んでいたかもしれない」と言う。
3年後、今度は下界を見てみようと思い立ち、全国放浪の旅に出る。ある農機メーカーと交渉して、小型耕うん機をタダで手に入れると、後部にトレーラを付け、寝泊りできるように幌を被せた。側面には「狭い日本そんなに急いでどこへゆく」という有名な交通標語を大書し、文字通り平均時速10kmで九州から北海道までを回った。
1年半にも及ぶ長い旅で、藤岡さんを農業に目覚めさせたのは北海道・利尻島に滞在した時だった。島で、肉牛の生産組合と出会い、半年間アルバイトしたことが、藤岡さんの農業観を大きく変えた。
「みんな開拓民の2世、3世ばかりだったから、発想が自由で物事に挑戦する意気込みが感じられた。ああいう空気は秋田にはなかったし、今でもないですよ」
こういう農業なら自分にもやれると思い、藤岡さんはようやく実家に帰ることを決意する。約5年間、盆正月にも戻らず、ほぼ音信不通だった息子が耕うん機に引かれて帰宅したのを見て、両親は仰天した。
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藤岡茂憲 フジオカシゲノリ
(有)藤岡農産
社長
1952年秋田県生まれ。高校卒業の翌日から5年間、登山と放浪の旅に明け暮れ、帰郷後、コメ作りを始める。97年法人化。現在の生産規模は32ha。「あいかわこまち」の自社ブランドで全量を直売し、東京にも営業拠点を置く。食料・農業・農村政策審議会食糧部会委員。日本農業法人協会理事。
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